おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の役場で林業担当をしています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

学問は僕を救ってくれた

皆さんは何故、勉強していますか?

意識高い人、高くない人、限らず。

小学校から始まって、中学、高校、そして大学。受験を何度もした人もいるでしょう。

大学では専門的になり、将来の仕事のために勉強しているという人もいるでしょう。 

勉強が好きな人もいれば、嫌いな人もいるでしょう。また、学問的なものではなくても、例えば芸術とかカメラとか、最近ではプログラミングとか、趣味的な勉強をしている人もいるでしょう。

 

 

私は、大学に入学以来、哲学という学問にとても惚れ込み、専門的とは言わずともそれに類する学術本、もしくは新書を読んできましたし、一年の冬からはそのたぐいの研究室に出入りしてゼミに参加してきました。

それは世間一般からしたら意識の高い行為なのかもしれませんし、そう言われれば否定するつもりもありませんが、私はそんな高尚な感覚はなく、ただひたすらに自分のために学んできました。

私は自分の不安を解消するために勉強してきました。

 

 

高校の終わりごろから、自我の発達というやつでしょうか、なんとなく“ヨノナカ”というものを感じるようになりました。

そしてそこに渦巻いている数々の矛盾についても。

 

小学校のころから環境問題に触れる機会が多かったのもあり、環境問題に対する人並みならぬ問題意識はあったように思います。

それ以外にも、格差の問題、教育の問題など、まだこのころはなんとな~く、ぼんやりとしたものでしたが、そういった矛盾というか社会問題を感じるようになりました。

 

 

それから大学に入って、例えば暉峻淑子さんの「豊かさの条件」を読んだり。

ネットなどでも社会問題についての記事を読んだり。

なんとなく感じていた矛盾が、より鮮明に見えるようになってきました。

 

そして、勉強すればするほど問題山積の社会というものが突き付けられ、なんとも言えない絶望感に打ちひしがれるようになりました。自分の中のぼんやりとした感覚が鮮明になるので、それはそれで大切な作業であったのですが、それはなんというか、自分のいのちを削るようなとても苦しい作業でもあったように思います。

 

しかし、それだけではありませんでした。

その一方で、本の向こう側には、私と同じように社会の矛盾や問題に真摯に向き合い(筆者は私と同様に苦しんだかもしれません)、その先に向かって、それを解決していくには、という展望や希望にまで手を伸ばしていました。

 

自分と同じように「おかしい」と感じている人がいる。そしてそれに対して真摯に向き合い、どうにかしていこうと考えているというのは、なんとも私の心の支えになりました。

そして同時に、哲学という学問の中にある「やさしさ」にも触れることができました。

 

例えば最近読んだ本で言えば、私が大学でとてもお世話になっている大倉茂さんの『機械論的世界観批判序説』というものがあります。

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ざっくり説明しておくと、機械論的世界観というのは、自然や人間や社会を管理・操縦可能な機械と観る世界観のことで、現代社会にはこの考え方が蹂躙しているという問題提起をし、その批判(良いところと悪いところを明らかに)し、それを乗り越えるための新たな思想が必要だといった内容である。

 

人さえも機械と見るとは、その人はそのうちでは替えの利く交換可能な存在として、いわゆる社会の歯車として考えられるということで、これは例えばコンビニ店員はその人でなくてもいいというもので、その人のかけがえのなさ、もっと言えばその人の尊厳が否定されている状態だと言えます。

「人間の唯一性とは何か」

「あなたがだれでもないあなたであることはどういうことなのだろうか」

人々の唯一性が失われかけている現代において、それを取りもどそうとする挑戦。それが本書の目的であると感じました。

そしてそれに対して真摯に向き合い、機械論的世界観という考え方の枠組み自体に問いを投げかける哲学に、そんな巨大で動かし難いように思う壁に勇敢に立ち向かっていこうとしている哲学という学問の力強さとやさしさに、私は涙の出るような想いで触れるのです。

 

 なに言ってんだと思うかもしれませんが、ほんとに私は常々勇気をもらっているわけです。

これ以外にも私を救ってくれた本はいくつか。

 

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社会の矛盾をそういうもんだと言ってしまうのは簡単なことなんです。

「社会的弱者」を、弱肉強食だと言って切り捨てることは簡単なことなんです。

今にも消滅しそうな山村地域を、税金の無駄だと言って撤退を促すことはいともたやすいことなのです。

 

でもそれを、仕方のないことだとして、現実しか見ずに、見て見ぬふりをすることは、私にできることはできません。

でも自分にはできることなんてほぼゼロに近い。

そんな自分に絶望するしかない。

そんな私は、勉強して理論武装して、そんな仕方のない現実に対してNOを突き出す術を身に着けるしか、今の自分を救う手段はないのだと思います。

 

 これが、学問が私を救ってくれたというその内容です。

 

 

哲学なんて、机上の空論で意味のないことだという学問だという言葉をよく聴きます。社会的にどうかなんて偉そうなこと、私は言えませんが、少なくとも私はそれによって救われているし、そうだという人は私でもないように感じています。それだけでも哲学や思想研究の意義は十分にあるように思うわけです。

 

小学ころから、自分の好きな勉強だけしてきました。辛い勉強だけはしたくないと思って避けてきました。だから頑張っているように見えてめっちゃ怠慢野郎です。

人によったら将来のためとか社会のためとか、高校の時なら受験のためとか、大学なら就職のためとか、何かしら目的志向があるかもしれませんが、

 私は自分以外の目的ができてしまうと急にやる気がなくなるように最近思います。だから研究が嫌なのかも。

ただひたすら利己的な勉強を、これからも続けていくように思います。

 

さて、皆さんは何故、勉強していますか?

 

学ばなくなったら人生は止まりますよ。

 

 

おいしんご