あなたは幸せですか。
幸せになろうとしていますか。
あなたにとって幸せとはなんですか。
たくさんの、夢を語る人や自己啓発の言葉たちは、幸せになるため、幸せに生きるために行動を変えたり考え方を変えたりということを促します。
こうした数々の言葉に、ぼくはずっと違和感がありました。
その通りそうなことが書かれてあって、この通りで生きられれば、幸せになれるんだろうなと、楽しく生きていけるんだろうなと思います。
一方で、「なんか違う」というかんじもしていました。
その「なんか…」を手探り手探りで見つけていきたいと思っているのですが、今回は、その根幹である、「幸せ」を疑ってみたいと思います。
ぼくが傾倒する岡本太郎さんの幸福観は、幸せの一般論にNoをつきつけます。
例えば岡本太郎「自分の中に毒を持て」を引用します。
「 ぼくは“幸福反対論者”だ。幸福というのは、自分に辛いことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態をいうんだ。
だが、人類全体のことを考えてみてほしい。
たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりはないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言い出したらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福というのことはありえない。
だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとてもいやしいことなんだ。
たとえ、自分自身の家が仕事がうまくいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる“しあわせ”ではあり得ない。」
また岡本太郎×泉靖一『日本人は爆発しなければならない』では
岡本「人間が生まれてきたのは幸福に生きることが目的だ、なんて考えない方がいい。絶対に不幸だということ、絶望だということを覚悟で生きなけれならないはずなのに、幸福に生きるために生まれてきているんだなんて錯覚を前提にしている卑しさだなぁ。」
とも語っています。
また、ぼくが敬愛する日本を代表する詩人・作家の宮沢賢治の作品にも似たような精神、思想が伺えます。賢治さんの「存在の原罪性」、つまり生きていること自体が罪という意識は、見田宗介「宮沢賢治-存在の祭りの中へ-」などでも解説されている通りです。
ここでは「よだかの星」のセンテンスを引用しておきましょう。よだかが、自分が虫を食べることに対する罪の意識とその運命を嘆く言葉です。
「あぁ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。あぁ、つらい、つらい。僕はもう虫を食べないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向こうに行ってしまおう。」
この生きるということの運命性、悲劇を背負わされている感覚、絶望感を、ぼくは、高校のころだっただろうか、強烈に感じたことがあります。
「あぁ、人間は自然環境を壊さずに、他の命を殺さずに、生きてはいけないんだ。」
この時、じゃあなんでぼくは生きているんだろう。死ぬしかどうしようもない社会で、なにを未練がましく生きているんだろうと、本気で悩んでいた時期でした。
さらに、大学に入って現在のグローバル資本主義経済の社会というものを知りました。物事を深いところまでよくよく見てみると、格差によって「豊かさ」を享受している現実、途上国の人々を搾取することで「豊かさ」が得られているんだということ知りました。存在の原罪性は、その社会の変化とぼくたちの「豊かさ」の拡がりとともに、強まっているのです。
こうした考えはそれ以来、ぼくの人生観、人間観、思想の原点としてずっと存在しています。それが、世間一般で大きな声を上げている自己啓発や夢や希望に対する違和感を持つ原因になっているのです。
幸せということが絶対的な善となっている社会。この幸福至上主義の拡大は、「幸せになりたい」が「幸せにならなければならない」になった社会だと思います。しかし、実はその幸せ自体は深く考えられていないし、こうした人間の悲劇的な運命を見て見ぬふりをしているわけです。
こうした運命に真摯に向き合おうと思ったら、それに対する人間存在としての「責任」というものが生まれます。
将来世代により良い社会を引き継いでいこう、できるだけ自然環境を壊さない、自然と共生した社会を模索していこう、「社会的弱者」を包摂していこう、そのためには自分のいのちを削っていかなければならない。
ぼくはどうしても、そう以外に思うことはできないのです。
賢治さんが上のような原罪を乗り越えるために選んだのは「自己犠牲」という生き方でした。これについて見田はこう書いています。
「生命の相互依存の連鎖という生物世界の事実―生命あるものがたがいにその生命を糧とし合って生きているという関係は、自己の生命の絶対化を離れることができるかぎりは、それは植物、動物が自らの生命によってたがいに他の生命を養い合っている〈生かし合い〉の連鎖としてみることもできる。
けれどもこのことが、たんにつごうのよい自己弁明と現状肯定の論理でないということのためには、「わたし」の生命を絶対化する立場を離れるということが、真実でなければならない。そしてこのことが〈真実〉であるか否かは、結局、じっさいに他者の生命のために自己の生命をすてるという行為によってしか、立証の仕様がないのではないだろうか。賢治はこのようにこの問題を追いつめていったのではないか。あるいは少なくとも、このように直感したのではないだろうか。」
自分の生命の絶対化を離れること。自分の命の重要度を下げるということ。何を言っているんだという感覚になると思いますが、個人主義が流布した現代社会の一般的思考枠組みでは理解に苦しむ概念だろうと思います。
有名な「雨ニモマケズ」においても、こういった考えは見られるように思います。
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
いずれにせよ、この社会が抱える矛盾や、その社会によって「豊かさ」が享受され、日々笑って健康的に暮らせている自分の存在の矛盾、原罪性に真摯に向き合えば、「幸せ」なんてこと軽々しく言えるわけありません。こんなにも悲痛で苦しく生を否定してくる社会なのに。
それでも、ぼくは、そんな社会でも、生きていかなければいけないのだと思います。
生命の自己保存の呼びかけと自然環境社会の悲痛な叫びの相剋に引き裂かれながら、その生を全うする義務を我々は負ってしまったのだと思います。それに対する責任、覚悟を持たなければならないのだろうと考えています。それがぼくの正義です。
死んだ方がいい生をどう全うするか。絶望とどう向き合っていくかを、これからも模索していきたいと思います。
おいしんご