おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の役場で林業担当をしています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

寝ても覚めても森のことを考える日々だ

移住して半月となりました。

地域おこし協力隊として、研修期間中という身分とは言え、林業現場に従事するようになっても半年となります。

 

自ら木を伐って、それをお金にするプロセスをたどりました。

林業に使う道具、機械類のメンテナンスがとても重要だということを習い、実践してきました。

車で現場に行き帰りしながら、様々な森をじろじろ見て、どんな森があるか観察しながら、また季節の変化もすごく感じる日々です。

自分たちの現場をやる以外にも研修に参加し、県内の森林組合や事業体の人の話を聞いたり、他の人の山にお邪魔したりもしました。

 

大学で森林・林業について学んでいる間は、実際の林業現場に入るということ、林業に従事している人と話す機会というのは本当に少なくて、片手で数えられるぐらいだったと思います。

間伐など森林管理作業もしたことはあったけど、多くは体験やボランティア活動のようなもので、いわゆる仕事としての生産活動とは程遠いものでした。

 

いざ現場に入って、そこでの様々な動きや仕組みを身をもって体験することで、自分が大学のころから感じてきたこと、考えてきたことにそれをぶつけることができています。

実際、そこから答えや確からしいことができているかというとそんなことはないけれど、現場での経験が知識を揺さぶっているような、より深く考えるための刺激のようなものを受けている、という感覚でしょうか。そのようなものを受け取っている。

 

この半年で、生まれてきたことは新しい疑問ばかりです。

どうやら昔から疑問を生み出すことはめんどくさい得意らしいです。

 

 

まだまだそれらを文章化するには甚だ勉強不足だけど、とりあえずおいしんごはこんなことを考えて頭を悩ませながらぐっすり寝付いていますということぐらいは書いといてもいいかなと思って。

雨ですることもないですしね。

 

 

 ①林業の近代化と「自伐型林業」運動の関係について

大学の卒業論文で「自伐型林業」運動を扱い、また「自伐型林業」運動の全国組織である自伐型林業推進協会の立ち上げ以来おっかけのように色々動向を追っているぼくです。

「自伐型林業」運動の有効性も認める立場ではあるのですが、学会界隈などでは賛否両論らしいということは在学中にも色々と感じてきました。

この運動の意義と立場、スタンスをどう評価するのかというのが大きな論点として、誰が持ち上げるでもなく持ち上がるものだったと思います。

 

ここで林業の近代化という事象を対象物として持ち出したのは、ある論文を読んだためです。

餅田治之・遠藤日雄『林業構造問題研究』(日本林業調査会 2015年)に掲載されている遠藤日雄の論文「近代化と日本の森林・林業・木材産業構造」(pp.11~53)というものです。

これ、卒論作成中に読んでたのになんで閃かなかったんだろ。

 

遠藤はここで、2002年を境に日本の森林・林業・木材産業は下からの近代化を達成し、国産材生産量を増加させているということを述べています。

下からの近代化というのは、川下、特に製材業の技術革新のことで、それに加えて外材の様々な要因による供給不足が重なって、国産材需要が増加し、現在言われているような国産材時代が起こったとという、ざっくりいうとそんな流れのようです。

たしかに昨今、林業は成長産業だと謳う記事を見かけるようになりました。

「森林・林業再生プラン」において木材自給率50パーセントという目標や様々な政策的後押しも大きく影響していることでしょう。

 

ここで林業の近代化を遠藤の言葉を借りて説明すると、「均質商品の大量生産、大量消費、大量廃棄を含意した」林業であって、「近代社会とは成熟した工業化社会の謂れ」であることから、言ってしまえば林業の産業化=工業化のことであると言えます。

現在全国的な人工林事情は、皆伐時代とでも言えるもので、増産増産が叫ばれています。

 

ぼくは、これには大きな意義もあると思います。

林業・木材産業も他産業の例にもれず、国際競争が求められる時代です。他国の質量共に安定した木材と競争し、自給率を上げていくためには川上側も安定供給ということが求められます。

そのためには増産は必然的なやりようだし、国際競争力の向上と自給率の回復という目的のためには林業の近代化は必要な方策だと思います。

 

いずれにしても時代の大きな流れとして、林業は近代化しました(またはその途上かもしれない)。その全体背景、林業構造の中において、2010年代に「自伐型林業」運動が動き始め、全国的な展開を見せています。

ここには大きな関係があると思われます。

 

「自伐型林業」運動は、特に指導者である中嶋健造は、林業の近代化の象徴ともいえる高性能林業機械皆伐、幅員の大きな道を強く批判しています。その批判が運動の大きなエネルギーとなっているのは疑いようのないことでしょう。

それは拒否反応と言ってもよいようなものかもしれない。

 

「自伐型林業」運動の是非は議論の外に置いておくとしても、こうした運動に大きな反響が生まれていること、そしてそれを入り口として林業に新規就業する者も少なからず生まれているということは認めざるを得ません。

大規模生産ではない林業を志向する人々がいる、というのはまぎれもない事実です。

 

林業の近代化という動きの中で、「自伐型林業」運動が生まれたというのは必然であったように思いますし、それは林業の近代化というものを相対化させる存在なのではないかという気もしています。

逆に、「自伐型林業」運動自体も、大規模林業のカウンターとしてだけ置くのではなく、林業の近代化の中で生まれた運動という見方で位置づけたほうが、そこでのアクターや運動の展開を考えていく上でより考えやすくなるのではないか、ということを思うのです。

 

今後、林業経済学会をはじめとした研究領域で「自伐型林業」運動がどのように扱われていくかはとても気になるところです。

ぼくもきちんと文章にしたいと思います。

 

高性能林業機械の意義とは何か

これは①と関わることだと思いますが、高性能林業機械の意義というのはなんなのかということも、考える必要があると思っています。

生産を効率的に進めていくために高性能林業機械を導入するということは、考え着きやすい答えだと思います。

 

ぼくはこの半年で、自家山林から木材生産して生計を立てる自伐林家さんにも数人お会いしてお話を聞くことがあったのですが、彼らの所有する機械は林内作業車だけとか、軽架線とか、2tトラックも一応持っているとか、本当に安価で小さい機械しか持っていません。

そうした機械による木材生産で、生産量も2㎥/人日などですが、十分に収入になっているのです。複業で他の収入口を持つ人が多いのも事実ですが。

こうした林業を目の当たりにすると、林業で食っていくために高性能林業機械が必要だという論理は十分条件ではあるけど必要条件ではないんじゃないかと思われるのです。

 

単純な算数で考えても、高性能林業機械導入という高額な設備投資をしたらそれをカバーするための生産量が必要で、逆に小さな設備投資なら、それを取り戻すための生産量も小さくて済みます。

いずれにしても、高性能林業機械は木材収入を向上させるための導入ではないんじゃないかと考えるようになりました。

それとは別の理由、つまり国策としての増産がそうさせているのではないかと考えることもできます。

 

余談ですが、高性能林業機械を導入しての施業を低コスト林業だと言いますが、高性能林業機械は燃料もたくさん食うし、全然低コストじゃないと思うんですよね。

たしかに、やっている間は人件費は削れるし、量もたくさん捌けるけど、初期投資も高額のものになるし。それを低コストだって言うのは、原発が安い電力だって言うのとおんなじ論理な気がするんですよね。

高投資高生産量林業って言った方が、正しいとぼくは思いますよ。

 

 

③再造林放棄問題について―広葉樹林化のプロセスに向けて―

皆伐施業に必ず付きまとう問題が、再造林放棄の問題です。

伐り切ってハゲ山にした部分どうするんですか、そのままにしといていいんですか?ということです。

 

これに興味を持ったのは、広葉樹林化というテーマについて考えたためです。

ぼくの住んでいる本山町や、それを含む嶺北地域、さらに高知県は人工林率が非常に高い地域・県です。

しかし、今後人口減少に伴い木材需要の絶対量が少なくなることが予想されます。その中で、ありすぎる人工林をだんだんと減らして、広葉樹林・天然(生)林を増やしていくことも考えていく必要もあると思うというお話を聞いたことがきっかけです。

 

ぼくもそれは大きくは同意です。

しかし、広葉樹林化の方法・プロセスというのはまだまだ未開拓な部分が多く、人工林施業のようにマニュアル化されていない。そこがとても難しいなと思います。

 

時には、皆伐してそのままにしとけば勝手に木が生えてくるんじゃないか、という意見も聞きます。

ぼくもそれが本当だったら、再造林放棄問題なんて問題じゃないじゃないかとも思いました。

 

じゃあ実際どうなんだと。

再造林放棄された場所はどうなるんだろうか、また環境的にどうなのか、ということが再造林放棄問題に興味を持った流れです。

 

再造林放棄の発生量・率は正確には把握されていませんが、九州全体を対象に行われた研究では、だいたい30%(最大で鹿児島62%、最低で佐賀2%)という報告がなされています(村上ら「九州本島における再造林放棄地の発生率とその空間分布」 日本森林学会誌Vol.93 2011年)。

 

ぼくもまだ、論文を見つけた段階できちんと勉強できてはいないのですが、気になるところは

・再造林放棄地の更新はどのように進むのか、天然更新は行われるのか

・土砂流出などの土砂災害防止機能はどうなのか

・野生生物に対する影響はどうなのか(シカの食べ物が増えることによるシカの増加とか)

といったところでしょうか。

 

きちんと天然更新が進み、数年後、数十年後天然林が成立すること、土砂災害防止機能についても大きく影響は出ないことなどが分かれば、再造林放棄は経済性以外の面については問題ではなくなるように思います。

 

皆伐が進む現在において、再造林放棄地も大きな論点となるので追っていきたいものです。

 

林業に森林生態学の観点はどれだけ活用できるか

 

林業は森を扱う産業です。

森林に手を加えて、生産活動を行う産業、仕事です。

しかし森林は決して木材工場ではなく、ひとつの生態系、森林生態系を形成しています。

そこには木材となる木以外の木が生えるし、大小さまざまな生物が生息しています。

 

そうした生態系をとらえる学問を広く、森林生態学として体系づけられてきました。

 

また、森林は水や空気に対しての様々な機能を有しています。そうした色々な機能は、生態系サービスなどと呼ばれますが、こうした多様な機能の発揮ということが森林に期待されて久しいです。

 

森林に手を加え、森林環境を改変する直接的な産業が林業、特に素材性産業です。これは自伐だろうが、大規模林業だろうが同じことです。

 

こうした、林業による様々な森林生態系への影響というものがあるわけですが、しかし現場でそういったことがどれだけ意識されているのか、つまり森林生態学的知識がどれだけ林業の現場に活かされているのかといったことは、甚だ疑問です。

 

林業と学問のつながりで、もっとも強い分野は、林業工学の分野だと思います。

生産システム的研究や林業機械の開発、いわゆる方法論の部分、生産性に関する部分の職学連携は大いにあります。

 

しかしもっと根本の、その森がどのような森で、どういった施業をしたらどういった森になるかなどといった、森自体を視る目、想像する目に関わる森林生態学の関わりは薄いと思います。

 

森林生態学創始者と言われる四手井綱英は「造林学の最重要な基礎学は生態学である」と述べています。その通りだと思います。

ぼく自身、不真面目な学生だったのでこのあたりはきちんと勉強してきませんでした。しかし、森林がひとつの生態系を形成し、森林を扱うことに責任を持つためには生態学的知識は必要不可欠であると思うようになりました。

 

森林土壌学や森林水文学といったものも含めた森林生態学、こうした学問領域が現場でどう活かすことができるか、これも大きな実践的挑戦かもしれません。

 

 

⑤よい森とはなにか

これは、すごく大きなテーマです。

ぼくは林業以外にも、ハイキングや登山と言った形で森の中を歩くことが多いのですが、気持ちよさや面白さ、時には感動などを感じたとき、「よい森だな~」という感想を持ちます。

そして、そういった感想を周りの人に伝えると、「自分には何が良い森で何が悪い森かよくわからないからなぁ」という意見をよくもらいます。

 

確かに、ぼく自身何を持って、「よい森」と判断しているのか、分かりません。

「よい森」というのは、天然の広葉樹林でも感じることだし、よく管理された人工林でも感じることです。人工林でも、木がたくさん残っている人工林で感じる場合もあるし、木があまり残っていない人工林で感じる場合もある。齢級の高い森で感じることもあるし、比較的若くても感じる場合もあります。

 

基本的に視覚的な感覚だと思うのですが、たしかなことは分からない。

 

よい森とはなんなのか。

これは、森とずっと付き合っていけば見えてくることなのかもしれませんし、行き着くことのない問いなのかもしれません。

しかしその問いの先に、よい森づくりの実践ということが可能なような気もしています。

 

林業は、素材生産と同時によい森づくりであるべきだと思っています。

だから、よい森づくりを行うためにも、よい森、気持ちいいと感じる森がどんな森かきちんと考える必要があるなと思います。

これは、今後の人生の大きなテーマかもしれません。

 

 

 

 

  今回は5つの項目に分けて語ってみましたが、これらはすべて繋がっていて、またここに書いた以外のことも含めて色んな観点から、日々角度を変えながら色々と考えています。

思うこととして、林業現場に入るようになってから、ようやく本格的に林業の勉強を始めたなぁということです。

大学にいたころどんだけサボってたんだよと。あれもこれも知らないことばかりです。

 

でも、大学のころ学んだこと、より基礎的な哲学や社会学的な知識というのも、こうしたことを考える上で非常に役立っています。

 

ぼくが大学在学中に、学問の分野で何を一番学んだかひとことで言うなれば、「近代(化)とはなんだったのか」ということだと思います。

それはまだまだ答えの出るものではないのですが、少なくとも現代に根付いている近代的価値観というものを相対化するのには役立っていると思います。

それは①で見たように、この林業の分野にも言えます。

 

こんなことを考えたところで、林業技術向上には1mmもつながらないし、儲かる林業ができるようになるわけでもないと思います。

でもまぁきっと性分なわけで、こういうことを考えるのが好きだし、しょうがない。

現場で感じ、現場の人の声を肌で感じるためにも、なにより自分の好きな森の中で汗を流して生きるためにも、今後も現場で一生懸命働いていこうと思います。

 

 

おいしんご