ぼくは言葉に救われて生きてきた。
その媒体は様々で、小説かもしれないし、哲学書やエッセイかもしれないし、音楽や映画、テレビ番組かもしれない。手紙や詩、語録もあるかもしれない。
とにかくぼくはいろんな言葉に触れて、素晴らしい言葉に出会っては感動し、自分の人生と重ね合わせながら咀嚼して、そこから自分なりの言葉を作って、自分を何とか救ってきた。
その中で、折に触れて思い出す、思い浮かぶ言葉たちがある。
これらの多くは、何かしら誰かの影響を受けているけれど、自分なりに紡いだ言葉たちだ。そうして反芻される言葉たちは、もしかしたら今の自分の哲学を成しているかもしれないと思った。人生訓と言ってもいいかもしれない。
今回は備忘録的な要素も含めて、それらをまとめてみた。
それらはそれぞれどこかつながっている部分はあるだろうし、抽象度も様々だ。ただ間違いなくそのどれもが、ぼくという人間を映しているように思う。
こうした言葉を文章としてつづることを通して、ぼく自身、自分を見つめなおしてみたいと思う。
「成功」や「成長」や「幸福」に、人生を奪われたくない。
自分の行動や先行きを選択する際に、この言葉を思い出す。
「こっちの方が成功できそうだから」とか「これをしたら成長できるから」とか「こうすることで幸せになれるから」とか、そういう目的ありきで、選択したくない。そんなものよりも、それがどうも、先行き不透明だし、非効率そうだし、破滅の道しかなさそうでも、自分の感性が響く選択をしたいと思う。その先に、成功や成長や幸福がもしあるのだとしたらそれはそれでいいのだけど、あくまでそれは副産物だ。
「なにかのため」とか「その先こうなるのであれば」とかいうことではなく、今この瞬間の感性に賭けたい。
無駄なこと、回り道を選びたい。
30年足らずの短い人生、特に自我が芽生えたここ10年を振り返ってみると、一見無駄なことだったり、遠回りしたようなことが、案外思い出深かったり、心に残っていたりする。そこで見つけたこと、感じたこと、出会った人たちが、今の自分にとって大切なもの、人だったりする。
もしかしたらもっと上手にできるやり方はあったのかもしれない。もっと楽な道、賢い選択はあったのかもしれない。でも、そっちでは見つけられなかった様々なことが、自分の今を形作っている。
正解を選ばなくていい。最短距離は選ばなくていい。遠回り、回り道でもその過程を楽しみたい。それがぼくの人生を豊かにしてくれる。
むしろ、無駄なことをしよう、回り道をしよう、という考え方の方が、自分の生き方にはあっていそうだ。
周りからはありがたいことにそうした生き方に対してご指導いただくことがある。ありがたい。ただ、あなたに「それは回り道だ」「その選択は間違っている」と言われれば言われるほど、わたしはその道を選ぼうと思う。
現在は過去が肯定してくれる。現在も、未来がきっと肯定してくれる。
今やっていることが、本当に正解なのか。正しい道なのか。迷う時がある。こんなこと続けてどうなるんだ、なんの成果に結びつかなかったら。考えてもどうにもならないことを、考えて、考えて、堂々巡り。
ただ、いろんな挫折や絶望を経てきた今わかることは、過去のそうした挫折や絶望は、現在が肯定しているということ。
それが直接どうつながっているかは不明瞭にせよ、ああやって悩んだりやるせなかったりした、あの時間があってよかったなぁとか、それこそあの頃は若かったなぁとか、客観的に見つめなおすことができる。
もちろんその中には、あの時もっとああしてれば、という後悔がないわけではない。でもそれもどうにもならないことにも、気づいた。未来はどうにでもなるからすごく悩んでしまうけど、過去はどうにもならないからそれに対して悩むことは減った。
そうした後悔さえも、思い出として大切にできるようになった。それは少し強がりすぎか。
いずれにしても、過去は現在が肯定してくれた。
だったら現在も、現在で肯定しようとするんじゃなくて、きっと将来が肯定してくれるんだろう。そうした楽観視は心においておきたい。
だから現在については、今肯定しようとするんじゃなくて、どれだけ不安で苦しくて痛くたって、がむしゃらに走ってみるしかないんだと思った。その行先はきっと、未来が肯定してくれる。
その希死念慮は、人生の伴侶だ。拒絶するのではなく、共に生きていきたい。
わたしには、ある時からついて離れない希死念慮がある。希死とまではいかなくても、ネガティブな感情、絶望感、やるせなさ。こうした感情の対処に四苦八苦してきた。
ただそれらは、排除しようとすればするほど、蟻地獄のようにわたしを深いところに沈み込ませ、よりその濃度を濃くさせる。
だからわたしは、排除するのをあきらめた。拒絶するのをあきらめた。
その希死念慮は、人生の伴侶だ。それはいずれ無くなるものではなくて、これからもずっと共に生きていくものなのだ。そう思えた瞬間、少しだけ靄が晴れたように思う。
この希死念慮は、このネガティブ感情は、まさにわたしの大切な一部だ。誰にも、自分にさえも拒絶させはしない。
自分ではなく、他者を肯定したい。
自己肯定感という言葉がある。幸せになるために必要なものらしい。ただ、どう頑張っても自己を肯定するマインドに持っていけない。自分の粗を探してしまう。自分の足りなさが見えてしまう。どうもこの先、自らを肯定するということはできそうにない。
ただそんなわたしでも、他者を肯定することはできそうだと分かった。相手がどんな人であるにしても、その存在や考えを肯定する。それは努力次第でどうにかなりそうだ。だからわたしは他者を肯定する。
自己肯定ではなくて他者肯定を強調したい。
その他者肯定は、もしかしたら誰かが私を肯定してくれることにつながるかもしれない。自分が自分を肯定してくれなくても、誰かがわたしを肯定してくれる。それで十分、生きるに値しそうだ。
他人に「期待」せず、「信頼」をしたい。
人はよく、他人がなにかしてくれなかったことに対してがっかりしたり、怒ったりする。これは恐らくその人が、他人に対して期待をしてしまっているからだと思う。「期待」は、相手にその責任を押し付けることだ。そしてそれが達成されなかった場合、期待外れとして責めてしまう。「期待」は一方的な関係で、相手に負担を強いるだけの行為だと思う。
だからわたしは他人に「期待」しない。なにかしてくれなかったからといって、なにかを成し遂げられなかったからといって、はじめから「期待」してないのだから失望も何もしない。
ただ唯一、「信頼」したいと思う。
「信頼」と「期待」は同じように聞こえるかもしれないが、「信頼」は、自分の側にも責任を持ち続ける考え方だと定義したい。「期待」は一方的であるのに対して、「信頼」は双方向的だ。「信頼」は裏切られることはない。なぜなら「信頼」の一部には自分も含まれるからだ。「信頼」があれば、その相手がなにか失敗をしても、共にカバーしようという思いがうまれる。
また、「期待」はある人のある行為にのみ向く感情だが、「信頼」はその人自体に向く感情だと考えたい。その人が、なにかを成し遂げられなかったといって、それがその人の人格とどう関係があろうか。
私は他人に失望したくない。だから「期待」しない。一方で、共に歩んでいくために「信頼」を置いていたい。そうした関係を築きたい。
やってもらえなかったことではなく、やってもらったことを数えたい。
人は、なにかをやってもらったことに対しては疎いのに、やってもらえなかったことに対しては、どうしてあれほど敏感なんだろうか。
「あの人は気が利かない」という指摘はその最たるものだ。実際は皆それぞれ、自分の気が付く範囲で行為をしているはずなのに、例えば完璧な状態(そんなものないと思うけど)が10であって、8の分気が利いても、2の分気が利かなったそれだけで、あいつは気が利かないとか言われたりする。うんざりしてしまう。
それよりも、たとえその人が2か3しかできなくても、その2か3を見つけて、感心して、褒めてあげる方が、よっぽど良好な人間関係だと思う。実はその2か3は、ほとんどの人が気が付かない2か3かもしれないではないか。
10全部できる人なんてほぼいない。指摘する人だって実はちっともできていないかもしれない。
やってもらえないことなんて、探したらいくらだって出てくる。そんな粗捜しの、監視されているような緊張した関係じゃ、全然心が休まらない。そうじゃなくて、実際にやってもらえたことに目を向けて、そのひとつひとつを大事にしたい。
それがどれだけ小さなことであっても、誰かが誰かのためになにかをやるということ、それ自体がとても尊いことなのだ。
自分さえ幸せにできない自分が他人を幸せにできると思うな。ただひたすら、他人の、あの人の幸せを願いたい。
「他人を幸せにするためには自分が幸せにならないといけない」と人は言う。その通りかもしれない。だから、自分さえ幸せにしてあげられない自分が、誰かを幸せにできるとは、到底思えない。残念ながら、それはもう諦めた。
けど、それでも、わたしにも大切な人たちがいる。
この人生の道程で出会った数々の素晴らしい人たち、わたしを支えてくれた心優しき人たちよ。わたしは祈ることしか、願うことしかできないけれど、わたしの関われないところで、どうか幸せになってください。そう祈らせてほしい。
死んだ方がいい命などない。
わたしは死刑反対論者だ。人間はグラデーションを持った存在で、優れている人と劣っている人、健常者と障害者、犯罪者とそうでない人、善人と悪人、それらはあるグラデーションの濃い薄いの話であって、どこかで線引きできるものではない、と考える。
犯罪に関しては、きっと法律というものがその線引きを一応になっていて、合法と非合法で人間を分けている。それは社会を成り立たせるためには必要なことなのだろうけど、あくまで社会的なもので人間の本質的なものではないと思う。法哲学の難しい話はぼくには分からない。
死刑というのは、凶悪な犯罪をした人を、死ぬべき命として扱うことだと思う。
犯罪に限った話ではない。安楽死の議論含め、命に対する線引きの話は様々なところで起こっている。その線引きが動きようのあるもの、社会や時代によって変わるものだとしたら、自分がいつか死ぬべき側の命に回る可能性がある。死刑を許容することは、自分や大切な人の命を不安にさらすことと同じだ。それは否定しなければならない。
人間の優劣は本当に一面的なもので、社会的なもので、絶対的、本質的なものではない。人間はグラデーションを持った存在で、それぞれがつながりあって生きている。その感覚は忘れずに持っていたい。
また10年経ったころ、こうした言葉たちを自分がどう振り返るか、ちょっと楽しみにしています。
おいしんご