おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の地域おこし協力隊(林業振興活動員)として活動しています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

数学と自然:その素直さと絶対感

最近話題の森田真生『数学する身体』(新潮文庫)を読了した。最年少で小林秀雄賞を受賞した作品ということで、本屋でも大々的に紹介されている。

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今回は、それを読んで思い出した様々を書きなぐりたい。

 

 

www.shinchosha.co.jp

 

本書は「数学」について書かれた作品だが、その内容の拡がりは我々がイメージする機械的で形式的な数学の外へと及んでいる。

世界の数学史は、「計算」という具体的な技術から、証明、そして数学自体を数学するような、様々な用途、思考方法に沿いながら展開してきた。そして、その数学史の一筋の展開として、筆者は数学によって「心」を見出そうとした二人の数学者、アラン・チューリング岡潔にたどり着く。5章あるうちの3章と4章をその岡潔の生涯と功績、思考内容が紹介されている。

機械的で形式的、冷たいイメージのある数学から、「心」や「情緒」(岡はこの言葉を好んで使ったらしい)や、「わかる」ということの真相へと迫っていく物語は、これまで一般的には知られていない数学の魅力を見せると共に、未知なる数学世界の漠とした拡がりをより一層読者に実感させるだろう。

 

そんな数学に魅了された若き一研究者の文章を読んでいて、自分も過去に感じていた、いや今も持っていないわけではないがすっかりそこからは遠ざかってしまった、数学、数への魅力を思い出した。

 

 

高校の頃は、数学や物理に魅了されていた。

あの頃は、難問に挑み連綿と受け継がれながら解決されてきた数学者のかっこよさと数学の神秘性に、その計り知れない宇宙にただただ圧倒されていた。

同時に自分が問題を解くことについても、それはあくまで計算としての数学だが、正しい推論のもとに公式や定理を繋げていけば答えに行き着く、ある意味ゲームを攻略するような感覚はすごく快感だったのを覚えている。自分が考えていたことが、正しいか間違っているか。ただそれだけ。

数学はとても素直に、真っすぐ私に迫ってきた。

 

 

今、自分は森林や自然に魅了されている。なぜ、森林や広く言えば自然に惹かれているかと問うと、それは数学の頃と同じ感覚なのかもしれない。

すなわち、自然もひたすらに素直にそこに存在している。自分はただ、偶然その前に立って、対峙しているだけなのだ。

我々がどんな行いをしようと、どれだけ善良なことをしようと、逆に悪事を働こうと、自然は人間が改変した環境の流れに逆らわずに、ただ存在し、生々流転を繰り返す。

山の木だって、街路樹だって同じで、人がどうしようが関係なく、植えられたらそこでシャンと立ち、なんの文句も言わずに枯れていく。

伐られれば、伐られた通りに倒れる。撹乱された場所には、その大きさに応じて再び新しい芽吹きが起こる。言い訳のしようがない。

 

自然の、その絶対感。

数学と自然は、その点でよく似ているように感じた。

 

 

林業においては、やはり木を伐るときが最も木と身体との対峙を感じさせられる。

先述した通り、木は伐られた通りに倒れる。自分はこう伐ったつもりだったのに、こう倒れると思ったのに、なんて言い訳はできない。自分が木に対してどう刃を入れているか、それに対して木がどう反応しているか。立ち方、枝ぶり、曲がり方、腐れ。全ての自然な姿を自分が感知できたか。

木を伐る時こそ、その素直さ、ある意味冷酷さを強烈に実感させられる。

 

自然も数学も、とても素直で絶対感を備えた存在だ。人間が手を加えれば、手を加えた通りに対応し、変化する。だから逆に自分の思惑が通らない。こうしたいと思って手を加えても、その通りにならないことは多々ある。

そして、変化を促している法則、自然法則と数学法則、これはあまりにも深淵で人がどこまで解り得るのか、未知の領野は広がり続けている。

 

その素直さ、絶対感、そして果てしなさ。そこに向かって対峙しようとする快感。高校の頃感じていたことと、今感じていることは、対象は違えど大きく異なるものではないのかもしれない。