おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の役場で林業担当をしています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

一瞬でもいいから「生きたい」と思いたい

4月末に放送されたETV特集「生き抜くという旗印~詩人・岩崎航の日々~」を見た。

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筋ジストロフィーという難病を患い、40歳の現在ベッドに寝たきりで生活のほぼすべての活動が人に助けてもらわないと生きていけないという生。

こうした、ある意味極限状態の生の形、姿に「生きる」ということの極を見ることができると思う。

彼、岩崎さんにとって、生きることは苦しみや辛さを必ず伴う。それは身体的にもそうだし、自分に対する精神的にもそうだし、同時に家族に対する申し訳なさなどの苦しみもあるだろう。10代後半では自殺を本気で考えたとのことだ。

しかし、それを受け入れて、生きていく覚悟をした人の哲学には、五体満足で衣食住にも困らずぬくぬくと生活している我々が感じることのできない「生きる」ことの極みが見いだせるのかもしれないと思う。「生きる」ということは覚悟のいる行為だと、最近つくづく思う。

 

極限状態で「生きる」ということについて考えたということに関しては、V.フランクル夜と霧』が思い出される。

ユダヤ人としてナチス強制収容所に収容された精神科医の著者が、強制収容所という人権もくそもない、明日生きるか死ぬかもわからない極限状態で見出した人生哲学は、現代の人々にも響くものになっている。是非ご一読をお勧めする一冊だ。

 

我々は、生きることが確約されている状況では、その当り前さゆえに「生きる」ことについて考えられない。それで平々凡々と暮らしていくことを望むならそれも良いだろう。「生きる」こと自体に疑いを持たず、ただまっすぐに生きていく。そんな生き方ができる人を、私は少々うらやましくも感じるぐらいだ。

 

しかしそれ以上に、私は、「一瞬でもいいから「生きたい」と思う」。

これは先日紹介した映画「セイジ~陸の魚」の中で発せられたワンフレーズだ。

この作品では、物を食べること、そのために働くことは生命維持装置のようなものだと表現されていた。極端な言い方をすると、人は気を抜くと「生きることに支配されながら生きていく」ことになるのではないかと思う。言い換えれば「生きなければいけない」という強迫観念が、我々を突き動かしている状態である。

それは本末転倒のようなもののようにも思う。心の底から、「生きたい」という欲望で生きていく。俺が生きたいと思うから生きててやりんだという感覚。自分が「生きる」ことにすがりつくのではなく、「生きる」ことが自分にすがりついてくる感覚。そういったものがこの言葉に含まれているのではないか。

 

命の危険に触れることで、人間はその生を輝かせることができる。その危険が大きければ大きいほど、その輝きは一層増すように思う。

 

私は大学から山登りをはじめたが、山登りもそれに近いものがあると感じている。 

登山中は、食べ物は持っていっているものしかないし、水も考えて使わなければならないし、雨や風があっても歩いている間はそれを避けることはできないし、いつ滑落などして怪我をするかわからない。命の危険とまではいかずとも、日々過ごしているときには味わえない身の危険、身の不安定さを感じずにはおれない。

そうした環境に身を置くことで、私は自分の身体の有限性のようなものをかんじることができる。山登りに魅了されたのもそういった側面があったからだろうか。

 

これまでも何度か書いてきたことであるが、どう考えても「生きる」ことは辛く苦しいことだと思わずにはいられない。どれだけポジティブに、自己肯定や他者肯定をしても、それを拭うことはできないように思う。

そしてそれは別にネガティブな発想ではないようにも思う。「生きる」ことに真面目になればなるほど、なぜ生きているのかを考えれば考えるほど、生きているということを突き詰めていけばいくほど、そうした数々の問いは苦しみや辛さを与える。でもそうした人生を「生きる」覚悟さえできれば、人生を充実したものにできるだろうと私は考えている。

「生きる」ことには覚悟が必要である。そうした重荷を背負わされた不器用で生真面目で誠実で鋭敏な少数の人間と、私は繋がっていきたいと思っている。

 

 

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