こんにちは、おいしんごです。
8月は部活で北海道の山に行ったりと山三昧でした。
現在実家に帰ってまったりしているところです。今日東京に帰るんですが(笑)
さて今日は、その山登りについて。
私は中学高校とバスケ部で、山登りは大学で部活に入ってからなのですが、この3年間(正確には2年半)で感じたこと、思ったことを書こうと思います。
山登り、それも団体(パーティー)登山において、とっても大事なこと。
それは、「一番弱い人に合わせ」ということ、だとわたしは思っています。
「弱い」というとネガティブな言葉に聞こえますが、具体的には体力がそのパーティーの中で一番少ない人だったり、ばてている人だったり、時には病気やけがをしている人だったりを意味します。
パーティー登山の第1原則は、全員無事に下山することだとわたしは思っています。
誰も脱落せず、だれを置いていくことなく、無事みんなで下山することが絶対的に重要です。
どれだけ楽な山で、楽な装備で、快晴でいい景色が良くても、それができなければその山行は言ってしまえば失敗ですし、
どれだけ天気も悪いし道も歩きにくく急な坂ばかりでも、まぁ楽しくはないでしょうが、無事下山できればなんの問題もないわけです。
そしてそれを可能にするためには、弱い人に合わせるということが絶対必要になってきます。
最近(といっても昔を知りませんが)は女性の登山者も多く、うちの部活にも少数ではありますが女子部員がいます。しかし、女子は男子と比べてどうしても体力や筋力は劣ってしまう。その差は男子の中でももちろん見られます。
その差を考慮してきちんと計画して行動しないといけない。
速くいきたいから遅い奴はあとからゆっくり来てね、なんてことはできない。遅いものがいればそこに合わせて動かないといけない。
に病気になったり、怪我する人がでるかもしれないけど、その人は勝手に下りてね、僕たちはまだ歩けるから山頂まで行くね、なんてこともできない。
もしかしたらそういう人が原因で、計画通りいかずに途中で引き返したり、別の道ではやく下りたり(エスケープ)することになるかもしれない。リーダーがこの山頂に行きたいと思っていても断念しないといけなくなるかもしれない。
でもそれも含めて弱い人に合わせないといけない。それは第一原則の「全員無事に下山する」を達成するためにです。
これを私は(自分の中で勝手に)「やさしさの原理」と呼んでいます。
人にはどうしてもできないことってあると思うんです。努力してもできないこととか、そもそも努力しようがないこととか
それが登山では体力とかに表れるけど、これは日常的に、人と何かをしようとするときに現れるものです。
そこでできない人が出てきたときに、その切り捨てていいのか、それとも助け合ったほうがいいのか。
そういう選択肢はなにも登山に限ったことでなく日常的なものだと思います。
少し話は飛びますが、現代はよく競争社会だといわれます。
受験戦争などが特に言われますが、学歴社会では学歴至上主義で、頭がいいか悪いかというひとつの物差しでしか子供は評価されません。
そして勉強が不向きな子供は社会から切り捨てられたように扱われる。
競争原理と排除の理論は相関性があります。
同じように、やさしさ原理は助け合いの理論と相関性あります。
この2つが集団の原理として働くと思っています。
企業やチームプレーの競技チームなどの成長や結果(売上)を出すことを目的とした団体の場合は、競争原理のほうが適用されます。
それを目的とした団体である以上、個人の目的もそれでないといけない。その目的・目標に向けて頑張れない人は排除されても当然でしょう。目的ありきな集団なわけだから
現在、社会的に問題になっているのは、こういった集団から離脱してしまった人が生きられない、つまりやさしさ原理でうごく集団が極めて少ない世の中であるということです。
資本主義社会ではすべての人が賃労働をしなければ生きていけない、成長や結果が求められ、競争原理が働く集団に所属しなければ生きていけない。
しかし、個人差があるように、その集団において生産性の低い(仕事のできない)個人というのはどうしても出てきてしまう。そうしてそういう人は社会から排除されてしまいます。
仕事のできるできないが、ひいては金を持っているかいないかが人間を見る物差しになってしまう。
わたしはこのような社会が健全な社会とは思えません。
企業じゃなくても今ある多くの集団はこの原理で動いているように思います。用語を使えば功利主義による運営で、その集団に利益をもたらさない非生産的な人物は、直接いらないと言われなくても、ひどい扱いを受ける。
どこかで助け合いの集団、やさしさの原理が働く集団に属していないと人間は生きていけないと思います。
やさしさ原理でうごく集団とは、具体的には家族とか趣味で集まったサークル、同好会とかです。
その間で、お互いに高め合うということはあるかもしれませんが、蹴落としのような競争は起こらない。
全員で何かをやる、ということを求めるような集団、と言えるでしょう。
しかし、このやさしさ原理は「甘え」につながる可能性も含んでいます。
これを考えたときに、その甘えが個人の成長を阻んでいるのか、集団の成長や成功を阻んでいるのかの2つに状況が分けられるように思います。
個人の成長の場合は、そんなのほっといたらいい。個人の話なので、成長したいと思っていたら勝手にするだろうし、成長したいとも思っていない人に君は成長する必要があるなんていって強制する権利が他人にあるわけありません。
一方、集団の成長や成功の阻害となる場合は、どうにかする必要があります。
ただそこで、成功できないから君頑張りたまえ、なんて言っても、言ってできる人は最初からやっています。
言っても頑張れなかったり上手くいかない人は絶対にいる。
その時は、まず目標がその集団のレベルでできることなのかどうかをもう一度全体で話し合って検討して、意識の共有をしなければいけない。
全体の意識やレベルで誰も脱落しないようなものをめざないといけない。その中で個人個人は努力をしなきゃいけないけど、それを容認して届く目標設定である必要がある。
これがやさしさ原理で動く集団の目標設定だと思います。
そもそもこういう集団には目標なんてものもいらないのかもしれませんね。
誰も排除されないような組織運営をやさしさ原理の集団は考えていくことになります。
最近、内山節の「ローカリズム言論」という本を読んだのですが、昔は地域の共同体がその役目を果たしていたようです。メンバーが困った時に無条件で助けるという気持ちを持っていたそうです。
しかし、現代ではその共同体が解体されて、個人として生きていかなければいけない社会になった。
こういう風なことが書かれていて、このやさしさの原理と関連性のある議論だなぁと思いました。
もちろん競争原理も必要です。それによって個人も集団も成長するので。
切磋琢磨というのはとても大事だと思いますし、それをもとに動く集団というのは社会のなかに残り続けるでしょう。
それにこの2つの原理は集団ごとに明確に分けられるものでもないと思います。競争原理を基調としながらも、やさしさの原理が働くようにもなっている。そういう集団もあり得るかもしれません。
競争原理とやさしさ原理の両方がいいバランスにないと、生きづらい人が出てきてしまう。
やさしさ原理とは、セーフティーネットのようなものなのかもしれないなぁと思いました。
以上、山登りからいろいろと大きな話をそれっぽく語ってみました!
写真は先日登った大雪山の御鉢平です。とても美しいでしょ~
では、失礼します!
おいしんご