おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の役場で林業担当をしています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

平和はどこから考えられるのかー「戦争という仕事」を読んでー

 

おはようございます、おいしんごです。

2015年もあと少しなりましたね。皆様今年はいかがだったでしょうか。

私は今実家に帰省してゆったり過ごしています。

 

今日は、先日読んだ内山節『戦争という仕事』について書きたいと思います。

 

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内山さんは1950年生まれの哲学者で、現在東京と群馬県上野村を行き来しながら、日本の農山村を舞台に独特な思想を展開しています。

彼の思想の中心には仕事・労働があり、それに絡めて地域、コミュニティ、経済、環境、人間存在、さらにはグローバル化といった現代的問題を考察しています。

日本の農山村や歴史的視点から日本の未来を展望していこうという態度や思想体系は非常に参考になる部分があります。

 

そんな彼の『戦争という仕事』

 

今回読んだのは農文協から出ている内山節作集シリーズの14巻のものでしたが、もともとは信濃毎日新聞に連載されて2006年に書籍化されたものです。

刊行当時はイラク戦争に日本の自衛隊を派遣することになり、戦後の自衛隊、さらには非戦という日本の立場が大きく変わった、戦後日本史の画期でした。

そのため、それを意識して書かれている部分も多くあります。

 

『戦争という仕事』というセンセーショナルなタイトルですが、章立てを見ると

1章:戦争という仕事

2章:政治という仕事

3章:経済という仕事

4章:自然に支えられた仕事

5章:消費と仕事

6章:資本主義と仕事

7章:社会主義が描いた仕事

8章:近代思想と仕事

9章:基層的精神と仕事

10章:破綻を超えて

増補として

・戦争の世紀(2009年)

・歴史の変わり目を感じる(2012年)

という風に構成されています。全体として現代の諸事象から仕事をとらえ直す、問い直すという作業が行われているように思います。

なので全体を俯瞰してみると、「現代の仕事を問い直す」といったようなタイトルの方が的を射ているように思います。

 

しかしそれでもタイトルを「戦争という仕事」としたのは、この本を通して戦争と仕事の同根性を見抜きたかったからだろうと私は考えています。

 

 

内山さんのここでの大きな問いは「なぜ戦争は止められないのか」です。

それはイラク戦争派兵の議論がなされた時に、賛成派にも反対派にも熱狂的な雰囲気が出てこなかったこと、なぜ戦後の非戦的態度を脅かすような事態に対して人々(民衆)は絶対やらせまいと本気になれなかったのか。

それは、現在私たちが行っている仕事や生活の構造が、戦争を否定しきれないものになっているからだと、もっというと戦争という仕事も一般人が行っている仕事も性質的には同ことだから、という風に内山さんは考察しています。

 

つまり戦争という仕事は特殊な仕事でもなく、逆に政治という領域のみに関するものでもないということです。

 

 

これはいったいどういうことなのか。

 

現在の仕事には3つの性質があると筆者は述べています。

一つは、命令に従うだけということ

二つは、交換が可能だということ

そして三つめは、過去を解体(破壊)するということ    

 

以下それぞれ見ていきます。 

 

1.命令に従うだけの仕事

これは軍隊のことを考えたら分かりやすい。最近の安保法案の際もそうだし、イラク派兵の際にも、自衛隊隊員の人たちにインタビューすると「我々は命令に従うまでです」という答えが返ってきます。そもそも自衛隊や軍隊を動かすのは国(国民)であり、それらが自己判断していては危険極まりない。なので自衛隊という仕事は「命令に従うだけ」のものとなってしまいます。

そしてこれは現代の企業労働にも言えるのだと筆者は述べています。

単純な雇用の場合、仕事の成果は雇い主の判断だし、雇い主が仕事全体を取りまとめている場合は命令・指示が下されないと動けないという状況もあります。

また、そうでなく自分が経営者で自分の裁量で行われる場合でも、市場のシステムを受け入れることでその労働は成り立ちます。現代の資本主義が作りだしたシステムのなかで、効率よく自分の作業を成し遂げることによって労働は成り立つのだと内山さんは述べています。

現代の企業労働は自分の本当に自主的な部分から離れて、どこかからやらされているものになっているのです。

 

2.交換可能な労働

兵士は基本的に数で考えられます。例えばある任務に3千人必要であれば、その時必要なのは特定のだれかではなく、兵士3千人です。これは機関銃3千丁必要だと考えられることと大きく変わりはないことです。まさにマルクスの物象化の議論ですが、兵士にはこういう性質があります。つまり、一人ひとりの「かけがえのなさ」がここには欠如しているのです。

そして単純作業化、システム化、マニュアル化された現代の多くの労働にも同じことが言えます。

企業の至上命題は資本拡大であって、そのためには効率化が必要です。効率化というのは単純化です。欠員が出てもある程度埋め合わせできることが重要です。そうなると、だれでもできる作業システムを作る必要が出てきます。

もちろんものによったらある程度作業になれて速い方が良いというのはあるかもしれませんが、職人のようにその技術を極めたプロフェッショナルで、その人じゃないと無理だというのは企業労働にはほとんど見られません。

そういう意味でも、兵士と企業労働には同質性が見られます。

 

 

3.過去を解体(破壊)する仕事

戦争というは他国を攻撃・侵略し、その国を直接的にせよ間接的にせよ自国の支配権を確立することだと、筆者は述べています。

重要なのは戦争中ではなく、終戦後、その敗戦国をどう自国の支配下に置き、経済的利得を得ようか、というのが狙いです。

そこではその国の言葉や文化の否定が行われます。植民地支配された国では支配した国の言葉が公用語として独立後も使われていることはよくあります。また文化についても、例えば日本は終戦後アメリカ的文化に強烈に染まっていきました。今の政治もアメリカ追従的なのを見ると、敗戦という事実は色濃く残っているのだなと感じさせられます。

そしてこれは現代の企業労働にも言えます。

企業の至上命題は資本の拡大だと述べました。そしてそのためには新しい消費の場を作る必要があります。みんなが古いものにずっと満足していたら企業が物を作っても売れないので、常に消費者の消費意欲を駆り立てる必要があります。

そのためには古い型を否定して、新しいものの新しさ、便利さ、カッコよさなどを押し出す必要があります。電化製品なんかは特にそうだと思います。過去のものが使えなくなったわけでもないのに、軽いだの静かだの性能がいいだのと言って、過去のものを否定し、新しい消費意欲を作りだす。そしてそれがないと生きていけないような社会を作りだす。戦後すぐは電子レンジや炊飯器、携帯もPCもなかったのに、今はないと生きていけない。それは企業の社会的支配を拡大した結果と見ることもできます。

これが現代の市場主義的経済です。

 

「経済活動を通しておこなわれることと戦争という形で行われていることとは、軍事力を用いるか否かという大きな違いはあっても、その基礎にある思想には同質性があるといってもよい。」と内山さんは結論付けています。

 

 

こう見ていくと、戦争とは異常なもの、特殊なものではなく、人々が日々行っている労働が、より強力で明確な形で現れたもの、労働の延長線上にあるものだということがあります。

だからその戦争を、戦争という仕事を我々は否定しきれないのだと、筆者は述べます。

 

そしてさらに内山さんは未来に向けて、「世界から戦争をなくそうとするなら、戦争という仕事と同質性を持った私たちの仕事の世界をつくりなおさなければいけないということになる。」として仕事・労働を問い直す意義を改めて確認しています。

 

ではそれはどういう方向で行われるべきなのか。

 

平和はどこからかんがえられるのか   

 

内山さんは本書で、農山村の暮らしや以前の日本の労働を持ちだして「無事な世界」という言葉を使っています。

 

 

内山さんは、日本の仕事の原点を「農業」だととらえ、そこでは「いのち」のやりとりが行われていた、としています。

そして農業をうまくやっていくためには、人間の労働だけでは無理で、自然の力を借りて、自然とともに作る、自然に作らせてもらっているという感覚を持つ必要があるとしています。

この農業と無事な世界、さらには平和につながる考え方を以下のように述べています。

 

「農業は単なる作業ではなく、過去や近未来と結ばれながら行う営みである。そして、それが不安なく展開されていく過程の中に、土とともに生きる者たちの無事な暮らしと平和の意味がある。無事に仕事をしているという感覚と平和とが結ばれているのである。」

「自分の仕事が無事であることが「いのち」の展開が無事であることを意味し、人々は「いのち」の無事として平和をかんじとることができた。」

 

 

イラク派兵に次いで、現在も安保法案に関して「平和」ということあちこちで叫ばれています。それはとても重要なことだと思いますが、それはどう実現できるものなのか。

 

そう考えた時に、それはとても大きなもの、大きな部分で解決できることのように思われて、身動きができなくなってしまう、また自分には関係ない世界のことのように思えてしまいます。

それは政治や戦争というものが生活から離れていることと同じように、「平和」という概念も自分の生活から離れてしまっているからではないかとこれを読んで思いました。

 

人は普通、自分の生活の範囲内のことやリアルに経験したことでないと実感を持って考えられないと思います。だから遠くの国で戦争が起こっても、その映像を見た時は心を痛めても、日々をそのまま生きてしまう。これは人間の認識能力の限界かもしれません。

 

だからこそ、平和というものを自分たちの身近な物に下してくる必要がある。

その一助として農のある生活、土とつながった生活というものがあるのかなと思いました。

 

本書に挿入されていた寄稿で大江正章さんという人が書いた文の中に、アジア研究者の中村尚司さんの言葉引用されていました。孫引きです。

「暴力に抵抗するのは、対等な人間関係を深める交流や協力である。交流、交換、更新、交易のような協力関係の深まりこそが人々の暮らしや文化を豊かにする」

 

国際関係というものも、外交問題という政治の領域で考えると自分とは関係ないものに感じてしまいますが、他国の人々と交友関係を結ぶ。それが延いては国同士の関係に繋がっていく。

 

そう考えると自分にもできることは見えてくるのではないかと思います。

 

そしてここにローカルから考えるという、地味でダサいけど超重要な思想的意義を見ることができると思うのです。

 

 

以上、長くなりました。

読んでくださりありがとうございます。

 

 

おいしんご