今年はこれだけの本を読ませていただきました。
https://elk.bookmeter.com/users/638905/books/read
以下、紹介したい5冊をつらつらと書いていきます。
- 舞姫通信(重松清 新潮文庫1999年)
- みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?(西村佳哲 弘文堂2010年)
- フェルマーの最終定理(著サイモン・シン 訳青木薫 新潮社2001年)
- ナチスのキッチン(藤原辰史 水声社2012年)
- 氷点、続氷点(著三浦綾子 角川文庫1965~1971年)
舞姫通信(重松清 新潮文庫1999年)
まず初めは小説、大好きな重松清作品です。
あらすじ
高校教師の宏海(海)の高校では、定期的に「舞姫通信」という手紙が全校生徒に学校とは関係なく配られる。「舞姫」とはその高校で数年前に自殺した女子生徒で、それを称えるような手紙の内容。そんな時に、テレビでは自殺志願者を名乗る城真吾という男が、「なぜ自殺してはいけないんだ」と世の中に発信し、若者を中心に熱狂していく。それをプロデュースするのは海の知人で、自殺した海の双子の兄である陸男の恋人の佐智子。舞姫、城真吾、そして理由もなく自殺した兄の陸男。
海は問い続ける。陸男が飛んだビルの非常階段で。
テーマは「自殺」です。死ぬってどういうことだ。生きていくってどういうことだ。
生きていかなくちゃいけないって、どういうことだ。
「生きる意味」ってのは10代後半から20代にかけて、自我が生まれてくるにつれて育む問いであると、よく言われます。一方で哲学の大きな問いでもあります。
それが分からなくなって、もがき苦しむことがあります。自殺をリアルに想像することもたびたびあります。
でもそれは、生きることへの強烈な執着なのかもしれません。
本作品の特徴的なセリフはこのような言葉です。
「死なないでくれ、としか言えないんですよね、人は人に。」
自殺することは、間違っているや、肯定できるという形で、そういった抽象的な問題としては語れないのかもしれません。ただ、切実なものとして、「自分はあなたに死なないでほしい」と、主観的に伝えることしかできないのかもしれません。
でも、この「死なないでくれ」という言葉自体が、その人の生の肯定だとしたら、それは十分に「生きる意味」なのかもしれないと、思いました。
ぼくの中では〈いのち〉は個別的なものではないという考えがあります。確かにどう生きるか、死ぬか生きるかの決定権は自分にあるかもしれませんが、その〈いのち〉は他者や、はたまた自然や過去や未来と繋がっているのではないか、そういう意味で、自分の〈いのち〉は自分が決定しているというのは一側面なのではないかという風に考えています。
これについては機会を別にしたいと思いますが、その考えと、上のセリフはとても近いものを感じるものでした。
重松清の作品としてはちょっと、というかなかなか暗く重い作品ですね。『疾走』とか『ナイフ』もあるから個人的にはこういうのもありだろうと思うけど。
重松清の切実な「生と死」への想い。それを、教師という目線から描いた、重松作品の傑作の一つだと僕は思います。
みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?(西村佳哲 弘文堂2010年)
2冊目は、働き方・生き方についての本
著者の西村佳哲さんは働き方研究家を名乗り、デザイナーでもある方です。
著書に「じぶんの仕事をつくる」「自分をいかして生きる」「ひとの居場所をつくる」などがあります。
今回紹介する「みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?」は対談形式になっています。
奈良県の図書館で開催された「自分の仕事を考える3日間」というフォーラムで、西村さんが呼んだ8人の登壇者との対談を元に書かれています。
対談相手は以下の8人
出版人/ミシマ社代表 三島邦弘さん
建築家/Open A代表 馬場正尊さん
フェアトレード団体ネパリ・バザーロ代表 土屋春代さん
Café MILLETオーナー 隅岡樹里さん
編集者/編集集団14OB総監督 江 弘毅さん
ファシリテーター/マザーアース・エデュケーション代表 松木正さん
料理人/くずし割烹枝魯枝魯店主 枝國栄一さん
これに加えて日本の地域を歩き待った友廣祐一さんとのお話も載っている。
なんとも多様な人々で、お話もそれぞれのキャラが立っていて、それぞれの生き方・働き方がよく見える対談になっています。
「まえがき」に今回の対談のスタンスが書かれている。
「彼らにお願いしたのは、『仕事や働き方について“論”ではなく、自分はどうやってきたか、何を大切にしているのかを聞かせてください』ということです。」
生き方・働き方というと、世に出回っている自己啓発本の類が頭に浮かびます。
でも西村さんの本は、他の本も含めて決してハウツーを示すものではない。
帯に書かれてある言葉
「同じ時代にを生きている他の人たちがどんなことを信じて、愛して、考えたり感じながら、生きているのかは聞いてみたい。」
そこから何が得られるのかは、個人個人の立場やそれまで生きてきたことによるから、自由。だけど、ちょっと自分の生き方・働き方を離れて見てみるというか、立ち止まって考えてみることには意義があると思うし、そのためにこうした作業はとても効果的だと思います。
ぼくはまだただの学生で、これから働いていく立場であって、まだ働くってことよくわからないけど、漠然とした不安に寄り添ってくれるような本だったなぁと思います。
上で挙げた対談者は、それぞれ代表や中心人物で自分の生き方を貫いているような人たちだけど、シビアな人生に打ちひしがれた経験とかも持っていて、おこがましいけど、共感というか、あぁなんとか生きていけるんだなぁと思ったりして。
勇気もらったとか、元気出たとかっていうことじゃないんだけど、ほんとに寄り添ってくれる文章だなぁっていう感想が一番適しています。
本当はそれぞれの語りについて感想を書きたいんですけど、長くなっちゃうし、そもそも自分の感想書いたところでこの本の趣旨には合わないだろうし。
とても読みやすい内容と書き口なので、是非とも。
フェルマーの最終定理(著サイモン・シン 訳青木薫 新潮社2001年)
3冊目は、数学界の超難問のひとつである「フェルマーの最終定理」が証明されるまでを描いたノンフィクションドキュメンタリーです。
- 作者: サイモンシン,Simon Singh,青木薫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/05/30
- メディア: 文庫
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これについては以前ブログで書きました。
誰でも感動できる数学ノンフィクション小説!を紹介 - おいしんごがそれっぽく語ってみた
小学生のころに習った「直角三角形の斜線の2乗は、他2辺をそれぞれ2乗した数の和に等しい(Z^2=X^2+Y^2)」という単純な定理(ピタゴラスの定理)を少しいじると、誰にも証明できないものになる。
ちなみにフェルマーの最終定理とはこのようなものです。
「x^n+y^n=z^n nが2より大きい自然数ではこれを満たす(x、y、z)の組み合わせは存在しない」(^nはn乗を表しています)
一見単純(?)そうに見えるこの定理の証明はちょっとやそっとじゃできないらしいです。
それを人生をかけて証明した数々の数学ドラマが見事な語り口で描かれていて、とても読みごたえがあります。
本書の流れとしては、まずこの証明の源泉とも言える紀元前のピタゴラスと数学に関する物語から始まり、そこから17世紀にこの命題を作りだしたフェルマーのことについて、そこから数々の数学者のこの命題への挑戦が描かれます。
そして最後に、ワイルズの証明物語を描いて、完結です。最後の部分はワイルズへの直接インタビューももとにしていて、非常にリアルなものです。
決して一人の超天才による偉業ではなく、多くの天才が見出してきたヒントの積み上げの先にこの証明があったというのが、非常にロマンを感じるところです。
個人的には証明の終盤に日本人数学者が絡んでいるというのも、驚きと誇りに思うところですね。
数学とかちんぷんかんぷんという人でも、(数式に拒絶反応を示さない人であれば)、十分に読める内容だと思います。中にはそれをもとにしたパズルも説明として使われていて、簡潔に理解できるように工夫されていました。
少し毛色の違ったノンフィクションを読んでみたいという方、是非いかがでしょうか。
ナチスのキッチン(藤原辰史 水声社2012年)
副題は「食べることの環境史」ということで、歴史学の学術本と言っていいでしょう。
著者の藤原辰史さんは東京大学の講師で、専攻は農業思想史や農業技術史といった農業の歴史に関する研究をしている方です。
今回の紹介する「ナチスのキッチン」ではその名の通り、ドイツのナチス政権下において、ドイツ国民のキッチンや食習慣がどう変化していったかを分析しています。
キッチンにとどまらず、レシピや家政学・栄養学の展開なども詳細に記録、分析されていて、力の入った大作となっています。
非常に私的で当たり前の空間であるキッチン、台所。
しかし、それは自然の恩恵である食物を調理して「料理」に変える場所であり、生態系と自分の体との「通路」であると言えます。そして、なので誰もキッチンを離れて生きることはできません。
逆に言うと、戦争時など統制を目論むとき、為政者にとってキッチンや食という分野は意外にも力を注ぐべき大事な点なのです。
本作は、ナチス政権下における、資本主義、科学主義、政策がキッチンにどう浸透していったかを克明に記録されたものとなっています。
そして、まとめでは現代の食も視野に含んで、現代の食に見られる状況はナチスの「キッチン政策」と地続きであることを指摘しています。
例えば非常に当たり前になっている「栄養摂取」という概念。これは食べるという行為の意味としての「栄養摂取」があるという、今となっては当たり前の概念です。逆に言えば、「栄養摂取」さえできていればその形態や過程は問題ではないということにもなります。
そしてこの「栄養」の流布や他にも効率的な「システムキッチン」というあり方は、極悪非道というイメージのあるナチスが行っていたことなのです。
しかしそれは食の本質の一側面でしかないのではないでしょうか。
食の科学化、効率化の進んだ時代。そこには、食の本質の一つである「食を楽しむ」ということが捨象されています。
本書のまとめではこうした「みんなで一緒に作って、食べて、片づける」という食の楽しみ、さらに、「「料理をすること」と「食べること」は、…芸術と呼ぶに値する美的行為である」という、食の本質を掘り下げ、再認識と食の復興を指摘しています。
400頁を越える長編ですが、鮮やかな論理と語り口はその長さを忘れさせてくれます。人間と自然の関係を、「キッチンの歴史」という観点から切り取った名著であると言えます。
氷点、続氷点(著三浦綾子 角川文庫1965~1971年)
最後は、三浦綾子の氷点作品です。共に上下巻あるので、計4冊の長編です。
『氷点』は1965年に、『続氷点』は1971年に出版されました。
あらすじ
舞台は北海道旭川。登場人物は、医師の辻口啓造とその妻夏枝、そして娘のルリ子と息子の徹。ある日、夏枝が自宅で啓造の同僚である村井と密会をしている間に、ルリ子が佐石という男に殺されてしまう。自分の浮気の間に娘が殺されたということでひどく自己嫌悪に陥る夏枝だったが、啓造は妻が村井と浮気していることに激しく憤る。そして夏枝が養子で女の子を欲しいと申し出ると、啓造は佐石の娘とされる女の子を引き取ってくる。この子は陽子と名付けられ、辻口家で育てられる。
夫婦の間の妬心と恨み、我が娘の殺人者の子である陽子に対する親からの視線。それを傍から見る弟徹の親に対する感情と妹陽子への愛情。様々な親子の間での感情が渦巻きながら、展開していく。
ここで書かれているテーマは「原罪」です。
作者の三浦綾子がクリスチャンという情報を得れば納得というところでしょうか。
複雑な環境で、自分の出自を知らされ心が凍り付いたときに陽子が見出した、人間が生まれながらにして持つ「原罪」。それを自覚した中で、どう生きていくか。どう「ゆるし」を得て、与えるか。
自分が抱える、自らの悪や罪、欠陥や障害、加害性といってもいいかもしれません。これをあると考えるかないと考えるかは、それぞれかもしれませんが、ぼくにはとてもしっくりくる発想です。
「原罪」というキーワードが、自分の身に降りかかってきたのは高校3年ぐらいの時だったかと思います。
それは自分の生を揺るがすには十分なものでした。
それを持ったうえで、どう生きるか、どうやったら生きていけるか。
ぼくは本を読むことで、何か答えを得ようと思うのではなく、共に考えてくれる仲間のような存在を見つけるというか、寄り添ってくれる存在や考え方に触れているように思っています。
それがなんとか生を繋ぎとめる作業になっているような感覚です。
この作品も、作中で多くのヒントを僕に与えてくれたように思います。
以上、長々と紹介してきました。
今年は部活も終わって就活もしてなかったのでそこそこ本を読む時間もあって、小説もいくつか読めたのは良かったです。
大学になると勉強っぽい本ばっかり読んで小説からは遠のいていたのですが、上で挙げた『舞姫通信』とか『氷点』シリーズのように、人生や社会について、個別の目線から書くことで、登場人物に語らせることで、評論とかからでは見えてこなかった救いや感動を得ることができるんだなぁと、改めて感じました。
来年はどんな本に出会えるか、楽しみです。
おいしんご