おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の地域おこし協力隊(林業振興活動員)として活動しています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

「いま」という時代とそこに生きるわたしたち-『赤朽葉家の伝説』を読んで

桜庭一樹赤朽葉家の伝説』を再読した。

ここに描かれた現代という時代とそこに生きる若者像が、2006年に描かれたものであるのに、今日の自分に重なるようで感動した。

現代という時代を冷静に、忠実に捉え、そこで生きる若者の心象を、誇張もせず素直に描き出されたこの作品。

今私たちに問いかけられていることとは。

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作者、桜庭一樹は、直木賞受賞作でもあり、気鋭の新人女優二階堂ふみを主演として映画化し話題になった『わたしの男』で有名な作家である。また、ラノベ界では『GOSIC』シリーズなどが有名であろう。

そんな作者が2006年に描いた長編小説、「赤朽葉家の伝説」。

文庫版(2010年)の冒頭でこのようにあらすじ紹介がされている。

 

「辺境の人」に置き去りにされた幼子。この子は村の若夫婦に引き取られ、長じて製鉄業の財を成した旧家赤朽葉家に望まれ輿入れし、赤朽葉家の「千里眼奥様」と呼ばれることになる。これが、わたしの祖母である赤朽葉万葉だ。――千里眼の祖母、漫画家の母、そして何者でもないわたし。高度経済成長、バブル景気を経て平成の世に至る現代史を背景に、鳥取の旧家に生きる三代の女たち、そして彼女らを取り巻く不思議な一族の姿を、比類ない筆致で鮮やかに描き上げた渾身の雄編。第60回日本推理作家協会賞受賞作。ようこそ、ビューティフル・ワールドへ。

 

 

語り部はここで「わたし」と名乗り、上に述べられた万葉の孫として赤朽葉家に生まれる、赤朽葉瞳子(とうこ)である。

彼女が祖母(万葉)や母(毛毬)から聞いた話として、万葉が幼いころから、母の時代、そして自らの時代を語っていくのが本作の進み方である。

万葉は、「辺境の人」(=山)の子として生まれるが、幼いころに里に置き去りにされ、以来里で過ごす。彼女には小さいころから未来視の能力が備わっていた。

万葉が幼児期を過ごしたのは戦後間もないころ。舞台となる村(紅緑村)は、昔からたたら製鉄の盛んな村で、戦後の復興期から、高度成長期にかけて製鉄業を主産業としてバリバリ活躍することになる。

その製鉄の取りまとめが、旧家の赤朽葉家、赤朽葉製鉄ということである。

 

万葉の幼児期から、大人になってこの赤朽葉家に嫁ぎ、子を4人産み、そして孫も生まれ、孫の時代へという時代変遷でこの物語は進んでいく。

その家の世代の流れと時代の流れは非常にリンクして描かれる。

高度経済成長、オイルショック、公害問題、学級崩壊問題、受験戦争、バブル経済、世紀末。そんな時代の変化の中で、製鉄業はもちろん、赤朽葉家の人々も多大な影響を受けて、成長、世代交代をしていく。

仮想の世界であるのに、リアルな社会現象と違和感なく交じり合っていくところに、リアリティ豊かな作品世界が生まれてくるように読んでいて感じた。

 

 

第2章では万葉の長女でもあり、瞳子の母である毛毬が中心に描かれる。ここでも時代の大きなうねるとそこでの人々の葛藤も非常に面白いトピックだが、今回はその次、第3章で描かれた瞳子の時代と、現代の若者の象徴として描かれた瞳子自体を見てみたいと思う。

 

 

第3章のはじめに瞳子は自らをこう語る。

「語り手であるわたし、赤朽葉瞳子自身には、語るべき新しい物語はなにもない。ほんとうに、なにひとつ、ない。」

 

瞳子の生まれ年は1989年、昭和から平成に変わる時期で、物語の中では23歳(2014年)まで描かれている。まさに、わたしのような現代の20代女性として描かれているわけである。

 

彼女はそれまでの赤朽葉家のメンバーに比べると本当になんの特徴もない、平凡な女学生として描かれていく。

特に大きな使命感も才能もなく、周りの友達と一生懸命に遊び、一生懸命に恋をし、生きてきて、そして、社会に出るとなった時に、大きな躓きをしてしまった。

 

「わたしには、いや、わたしたち普通の高校生には大志というものがなかった。そこのことでよく担任の教師が長々とお説教をぶった。自分が若いころは、なりたいものや見果てぬ夢に燃え、社会を変革しようと正義感を燃やし、もっと熱く生きていたものだ、と。君たちには若者らしさが足りない、と。若者らしさとは、なんだ? 無気力と憂鬱こそ、若さという病ではないだろうか。行く手は茫洋として、やらなくてはならぬことばかり多い。霧に包まれた小舟にのっているような、こころもとない季節。それがわたしたちの感じた十代という時間であった。」

瞳子はこんな風に十代という時間、時代を描いている。

夢を持てとか、希望を持てというのは、時として暴力になりかねない。そんなものおしつけられるものでもないのだ。

 

一方で瞳子は自分の心の内をこのようにも語る。

「わたしは「足りてない」と確信している。「満足できない」と毎日のように思っている。だけど、「それでいい。過度な期待なんて人生にしちゃいけない」と戒める声も聞こえてくる。「足りてない」の声はわたし自身の心の叫びであり、「それでいい」と戒めるのは時代の声である。そんな気がする。叫びだしたいほど、本当は不安だ。だけど、なにを叫ぶ?」

文字通り、漠然とした不安で、このままでいいとは思わないけれど、どうしたらいいのかも、どうなりたいのかも分からない。そんな気持ちでいっぱいなのだ。

 

瞳子はそんな不安やもやもやの中で、仕事をやめてしまう。その後ろめたさの中、周りと同じように働けない自分への非難が噴出する。

 

「いろんなことに耐えながら、社会の矛盾を諦念を持って受け入れながら、漂い流れるように大人になっていく。清濁すべて併せ呑んで、大人になっていく。世の中にきちんと出て、つまらぬ日々を永遠に闘っていく。そういうことがわたしにはできないのだった。はるかむかしから、みんながやってきたことなのに。祖母の時代も、母の時代も、そして現代でも同世代の何割かは、そうやってもう社会で働いているのに。わたしにはそれができないのだ。親たちから、社会で生きる力も覚悟も継いでいないのだった。いやなことなんてどこにでもあるけれど、それに傷つく覚悟なんてなくて、自信がなくて、それでまた逃げるのだ。」

 

現代において、働くということはどういうことだろうか。

生きるということはどういうことだろうか。

 

夢や、社会の変革や、使命を持たずとも生きられるし、働ける。

だらだらと社会の流れに身を任せれば、生きていける。

私はこんな社会を以前から、皮肉にも〈豊か〉な社会と呼んでいる。

 

生きていこうと思ったら、ずっとバイトで生きていくことだってできるのだ。

そんな時代に、そんな社会に、私たちは何を求めて生きて、何のために働くのか。

 

 

これらとか関わって、この本にはもうひとつ大きなテーマがある。

それが「家」という大きな物体、それはある意味「しがらみ」であり、そして「世代」という歴史性である。

 

赤朽葉家は戦前より脈々と受け継がれてきた家系であり、万葉も毛毬も跡取りを作るため子を産んだ。そして瞳子の時代に、家族の希薄化という時代現象とともに、赤朽葉家という神話も幕を閉じた。

 

代々家系を繋いでいくという思想が昔から日本にはあった。土地を含めた財産を後世に渡し、次世代に渡していくという考え方である。家業継続のインセンティブとして「家」の繁栄があった。

その家系は、近代になって「国家」に変わった。戦争がまさにそうで、「国家」のために人は生きた。戦後は、「国家」の繁栄のために働いた。

その労働のインセンティブはしかし、個人の豊かな暮らしとも連動していた。国家が豊かになれば我々も豊かになれる。

だから、人々はモーレツに働くことが出来た。

 

しかし現代では、その労働のインセンティブとして機能した「家」も「国家」も実質的な意味を持たなくなった。もちろん日本という「国家」はあるし、「家族」もあるが、それぞれは歴史性や共同性を持ち合わせたものではない。

「国家」とは国家行政のことであるし、「家族」も歴史性を帯びたものではなく、いわゆる核家族に象徴的な今だけの家族である。

ただひたすらに「個人」の幸福のために皆は働いている。それが現代の特徴といえるだろう。

 

国家の繁栄も、家系の継続もない。なんのしがらみもなく生きていける。

そんなときに、私たちはなにを軸に生きていけばいいのだろうか。

  

さらに、これはその逆ともいえるのだが、「国家」という枠はグローバル化の流れと情報技術の発展も相まって「世界」という枠に拡大したともいえる。

「国家」の繁栄を望んでいた時代は「国家」のみを見えていればよかったが、世界が見えるようになると、世界中で紛争や環境難民、経済的帝国主義の餌食となる人々、さらに世界的な環境破壊と今この瞬間も絶滅していく動植物。そういったものが情報として入ってきて、われわれの問題意識は「国家」の枠では収まらなくなってきているといえる。

 

 

この逆方向の2つの指向。そして皮肉にも〈豊か〉な社会。そんな社会で、自分に素直な若者は八方ふさがりになり、立ち往生しているのではないか。

この物語で描かれた世界観と若者の心情を、私は自分に当てはめてそんな風に描いてみたのである。

 

 

瞳子は、名を母毛毬から授かったが、本当は曾祖母のタツから「自由」という名を授かるはずだったというエピソードもある。

本当は「自由」という名になるはずだった。そこに想いをはせ、瞳子は2度このような思いを巡らせる。

 

「自由とはなにか。現代を生きるわたしたちにとって、それはいったいどういうことか。女にとって、自由って、なんだ。」

 

自由は大切なことだと、私たちは考える。

自由であることが、生きるうえで絶対保証されていなければならないことだと考える。

 

しかし、自由な人々が生きる〈社会〉とはどのようなものだろうか。

絶対的に自由な人々しかいない集団とは、組織とはどのようなものだろうか。

完全に自由な人々同士が、つながることは可能なのだろうか。

 

自由ってなんだ。

 

この小説には、通底した、「家族」と自由、「国家」と自由、というテーマが描かれているように思う。

そして、そんな社会で私たちはどのような選択をできるというのだろうか。

 

 

今は大学4年の初夏である。

大学卒業後の進路に悩み、自由という根無し草の状態で社会という大海原に投げ出されんとする今。

将来、何者になり得るのかも、何者になりたいのかも分からない今。

しかし、今の自分に満足できるわけがない若い今。

多くの矛盾の中にある、世界を覆う叫び声に胸をかき乱されている今。

 

なにか答えが見いだされたわけではない。ただ強烈な問いを突き付けられただけといえばそうである。

 

そんな今を生きる私が、再びこの本を手に取って読んだのは、何かの運命のようにも感じた。

 

おいしんご

 

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