おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の地域おこし協力隊(林業振興活動員)として活動しています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

人間・岡本太郎から見る「生きる」こと

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 岡本太郎と聞くと何を思い浮かべるだろう。

 

大阪万博における象徴的モニュメント「太陽の塔」。あの巨大で奇妙な骨格を思い浮かべる人は多いだろう。

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または「芸術は爆発だ!」という言葉。時のCMでも使われた言葉ではあり、言葉として知っている人は多いだろう。もちろんこの言葉の真意を汲み取られず、言葉のみがひとり歩きしているだろうというのは容易に想像できるし、なんとも望ましくないことである。

 

 

岡本太郎の作品を見たことがない人、その著書を読んだことがない人にはだいたい以上のことが思い浮かばれるだろう。

 

彼の著書を読んだことのある人で言えば、例えば「危険な道を選べ」といったある意味自己啓発的な文言、もう少し言うとニーチェの「超人」概念のような実存主義的思想、俗っぽく言うならば岡本太郎の人生に対する勇気や決意といった人生観を思い浮かべる人もいるだろう。その人生観に心動かされ、生きる支えにしている人も少なくはないと思われる。私もその一人だ。

 

ただその力強さも、もちろん岡本太郎の思想の支柱であると思われるから間違いではないが、岡本太郎から乖離してひとり歩きしているように思われてならない。こういった言葉から、「岡本太郎は自信に満ちあふれた強い意志の持ち主である」というイメージがあるように思われるのである。名言集のみを読んだ人は特にそうではないだろうか。

 

しかし、その著書を読み、岡本太郎の人間的な部分に踏み込んでいくと、その根底には実はもっと人間らしい、これも適切な表現ではないかもしれないが「弱さ」のような部分が伺えてくる。

結論から申し上げると、岡本太郎という人間は、非常なまでに素直で繊細で敏感で、それによって苦悩とともに生きている人間である。

そして私は、上のような人生観・思想に加えて、この岡本太郎の人間らしさ、人間臭さに、また改めて心打たれるのである。

 

その一端を紹介したい。

 

 

それは太郎さんが1956年に著した自伝エッセー「青春と芸術」の一章「青春回帰」の最終節「生活の信条」という部分に見られた。

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太郎さんの人間的本質はもちろん彼の生い立ちに関係がある。作家である母かの子と芸術家の父一平という芸術家一家に生まれた太郎は、一般家庭では考えられないような育てられ方をしたようである。その異常ともいえる家庭環境と親との関係は太郎さんの生き方に強烈な影響を与えている。そしてその成熟度は子どもらしさをある意味で越えていたのではないかと思われる。小学校の時分から授業を聞かずに哲学書を読んでいたというエピソードからもうかがえる。

そして上で述べたその感受性も、そういった家庭環境も影響してすでに小さいころから備わっていたものであったようだ。

 

「芸術家の両親を持った私は、一般家庭の子弟のような躾は受けなかった。特に母からは、芸術が至上であり、それに殉ずることこそ生甲斐で、他はすべて俗事だという考えを注ぎ込まれて育った。持って生まれた素質の上に、さらに純粋すぎる教育を与えられた。もの心つかぬうちから、並みの世界と遮断され、ために子供同士の交わりにも、自他がかけ離れて、言葉の了解にさえ溝ができていた。」

「(周囲から変わり者扱いをされたがゆえに)私は己だけの世界に閉じこもって、他の世界との隔絶による無理解、ズレによるいい知れぬ孤独を感じていた。そして、ひたすらに他から迫害されているというような妄想を抱いていた。

結果、はげしい虚無感が子供心をしめた。それは死に対する憧れに昇華し、自殺を美しい行為のように空想しはじめた。やっと小学校二年のころである。やがて転じて恐怖感となり、「死」の予感におびえた。殺されるという妄想である。殺人事件の噂などを聞くと、真剣に次は自分の番だと考え、夜、廊下の角を曲がる時などには、もの陰に匕首をひらめかした兇漢を想像して身構えたものだ。床につくたびに、胸から腹にかけて、血みどろに切り裂かれている私自身の惨殺死体を眼にうかべて戦慄した。その挙句、ひどい神経衰弱にかかって、二、三か月学校を休んだことがある。」

 

強烈な自意識と今風で言うと中二病的妄想を小さいころからしていた、この感覚は太郎さんの思想の根底にあるように思われる。そしてこの心は様々に揉まれながらも学生時代へと移っていき、芸術家を志す時期になった時、芸術とは何か、何を描くべきか、何のために描くのかという「芸術の信条」の部分での自己問答に変わっていく。

 

「芸術上の疑念は、直ちに己に対する不信に変わった。もし自分が芸術家として失格ならば、芸術にのみ能力を信じ、生甲斐を見出していた私にとって、およそこれ以上の絶望と辱めはない。芸術が常に虚無との対決に於てあるものだということを識らなかった私は、その拒否あって周章し、徒に他を責め己をしいたげたのである。」

 

芸術家を志し始めたころの感覚だろう。芸術に真に向き合おうとすればするほど芸術が自分を拒否するような感覚。多感な時期で性の問題も同時に絡み合い、非常に苦悩した当時が語られてあった。

 

そして18のころ、太郎さんは両親とともにパリへ移住する。上のような芸術への疑念に答えるために、日本から西洋世界へ、子どもの世界から大人の世界へと新しい世界へ、飛び込んでいったのである。太郎さん自身は「絶望的に自分自身を導き入れなければならなかった」と述べている。

 

「疑惑と焦慮に錯乱しながら、数年間、夢遊病者のような彷徨がつづいた。当時のことをいま思い出してもゾッとする。(中略) 人に逢う度に、私は強いて笑顔を作った。それはほとんど強迫観念に近い気持だった。いつも鏡の中にある自分の顔が憂鬱で醜く歪んでいたので、それを見られるのを恐れたのだ。」

 

上で紹介した力強いイメージからは想像できない、人間的脆弱さがこのころの太郎さんにはあったようである。そうこうしながら自分の生き方や芸術との向き合い方を模索していく。一時は筆を投げ捨てて、哲学や社会学、さらには民俗学の勉学に勤しんだようだ。それは芸術への疑念に対する決意であったようだが、一方でそれとは関係ないことをしている自分に対する疑問は少なからずあったようである。そんな矛盾の間に揺れる自身のことが述べられていた。

そうしてパリ生活を終えることにはある成果が得られたようである。しかしそれは決して喜ばしいものではなく、ある意味絶望的で非合理なものであった。

それは以下のように表現されている。

 

「私は宇宙において微小な一匹の蟻と何ら異なるところのない存在である。それは如何ともし難い。だが、この一匹の蟻が傷ついて、己の胸からふつふつと血のほとばしり出るのを眺めるとき、己の破滅と同時に、大宇宙が破滅するのだと観る。」

「この悲劇的なポスチュレート(結論、決意)が実際には成り立ちえないことを知りながら、それは私にとって動かし難い実感であった。」

 

このセンテンスには、太郎さんの芸術観や「芸術は爆発だ!」の真意に通ずるものが見られるように思う。また一方で、宇宙と自分、全と一の関係といった、人間観も垣間見えるように思える。

パリ滞在期を振り返るにあたって、太郎さんはパリを非常に高く称賛し、自分の本当のふるさとのように感じている。一方で、そのパリに集った世界中の芸術家を社会生活の現実から浮いた浮草と表現し、自分のことを「エトランジェ(見知らぬ人、異邦人)」に過ぎないと自覚したという。

そしてそこから生まれる孤独感には耐えられなくなっており、「孤独から脱れ、社会人として現実世界の上に己を見出すために、母国に帰らなければないことをひたすらに痛感した」と述べている。孤独や現実的という言葉で自信を振り返る様は、毅然として、自分勝手と言えるほど自由に、反社会的な言動を発する太郎さんというイメージからは幾分かけ離れたもののように思われる。

しかしそういった思想や態度は、現実というものをそこから離れずに真摯に、愚直に向かい合った結果のようにも感じられる。

帰国後5年間の軍隊生活で太郎さんは、自由とは正反対の絶対的な連帯性、拘束性を味わった。

 

「連帯性を求めて帰国した私は、社会の現実に触れることによって、むしろ孤独者の純粋な苦悩が如何に稀な、尊いものであるかということを覚ったのである。」

 

そしてこうした「孤独」という感覚から、芸術の契機を見出し、「対極主義」という太郎さん独自の芸術的態度に辿り着いたのである。

この節の最後は、太郎さんが孤独を紛らわすエピソードで閉められている。

 

「一日中多勢の人と触れ合って帰宅し、夜一人ぼっちになると、結局、誰にも逢わなかったという空しい感じで、心身ともに虚脱してしまう。逢っているときには、それでも何となく感じられていた連帯感が、結局、夢想にすぎなかったのだと思えてしまうのである。

 私は淋しさのあまりに、そんなとき、家の猫をつかまえて来てひねくりあげる。猫は歯をむいて怒る、いじめれば鳴く。可哀そうに思い、謝罪の意を表し、食物をやると、初めは疑い深いようすだが、やがて馴れ馴れしくすり寄ってくる。この猫に、私は少しも愛情を感じていない。醜い野良猫である。だが、夜もふけて、一室に彼とともに坐していると、私は激しくヒューマンなつながりを感じてしまうのである。私の生活に触れる誰よりも彼は人間なのである。いったい、人間が云々する生活とは何だろうか。おそらく人間自身、それを識ったためしはないのではないだろうか。まして、生活の信条などという文句はナンセンスである。そんなものがあったとしたら、差し当たり、猫にでも喰わしてしまえばよかろう。」

 

芸術家は常に絶望し、常に孤独である。

それに敏感に反応し、それを昇華する手立てとして芸術作品を作るのではないだろうか。

そしてそれは太郎さんが感じているように、生活世界、現実社会と乖離していてはそういった孤独や絶望を感じることはできず、そこに根付き、真摯に向き合うことではじめてできるのだろうと思うのである。

 

「僕が死のうと思ったのは、きっと生きることに真面目すぎるから」

 

これは、私が大好きなバンドamazarashiの秋田ひろむが「僕が死のうと思ったのは」という歌の中に描いたワンフレーズである。人生の本質を表しているように思うし、今回紹介した太郎さんの思想根本に通じるものを感じる。

敏感であればあるほど、人生とは痛いのだ。

 

 

芸術家はこうした感覚を芸術として昇華できるが、そうでない人はどうすればよいのだろうか。

 

私はその行先を「労働」に求められるのではないかと考えている。それも機械的な単純労働ではなく、お金を稼ぐ仕事に限るものでもない。他者と行うコミュニケーション的活動、もしくは協働労働のようなもの、または農業や林業、土いじりといった自然との共同労働である。

人間は労働によって自分を生かし、他者を活かし、社会を作る。

絶望に鈍感になるのではなく、孤独を紛らわすのではなく、人や自然と触れ合い、手を動かし、肉体的精神的な実感を伴う活動を行うことによって、人は生きることができるのではないか。

 

これはまだまだ抽象的な思考にとどまっている。

生活実践を伴わせて、思想にまで上昇させていきたいと思う。

 

 

おいしんご