おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の役場で林業担当をしています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

くりこま高原自然学校での体験を振り返る

2月10日から本日3月7日まで、宮城県の北西部、栗原市耕英の山奥のくりこま高原自然学校にボランティアスタッフとして入ってお世話になってきました。

計26泊27日。長かったですねー。

 

代表の佐々木豊志さんと色々お話したかったというのと、自然学校という現場ではどんなことが行われているかを知りたいという目的で行ってきたのですが、とてもたくさんのことを体験し、学ぶことができました。

 

今回はそこで感じたことを振り返ってみたいと思います。

 

 

 

1.多様な教育の形がありうる

 

期間のはじめ一週間は、自然学校のメインプログラムであるスノーキャンプが行われ、それのお手伝いに入りました。

スタッフミーティングなどにも交じって、個々の自然学校がやろうしている冒険教育とはどういうものかというのを、ざっくりとですが知れたように思います。

 

その中で、スタッフの人たちと話していて感じたことが上のようなことです。

 

自然学校、自然体験教育といっても形態はいかようにもあるそうです。それこそ十人十色。

公教育とは異なるオルタナティブな教育ということで、自由度がある分やはり大事になってくるのがその指導者の想いなんだなというところが見えました。

例えば、

くりこま高原自然学校の冒険教育で言えば、それは子どもの「生きる力」、自ら問題を見つけ、考え判断し解決に向けて実行する力を育むということをそのコンセプトの中心にしているようです。そのプロセスとして自然と戯れたり、掃除などの生活の営みを大事にしたり、仲間とともに何かを行うことをしたりという風に行われているようです。

 

こういう風に、子どもたち(に限らずとも)に「何を伝えたいのか、何を身につけてほしいのか」という想いや理念やコンセプトがその教育には重要なんだなと思いました。

 

僕自身、教育というものにはずっと興味があって、将来は森林で学ぶ場のようなものを作りたいと考えていたので、こういう考え方はとても大事だなと。

逆に言えば、僕はもう少し自然科学的な、森林に対しての親近感や興味を引き出すような教育をやりたいのではないか、という風にも見えてきました。

これは今後もっと掘り下げて自分の中で確かなものにしていきたい部分であるように思います。

 

 2.「守る・受け継ぐ」という価値

 

 

これはどんな時に思ったことは忘れましたが。

科学・技術の発達に伴って、また資本主義の拡大に伴って、どんどん新しいものが生まれ一瞬で流行が時代遅れになる現代において、やはり新しいものを生み出すということにかなり大きな価値が置かれているように感じています。

それはそれで社会や人類の発展、自己実現の拡大につながっている面があるので否定はできませんが、その反面として「守り、引き継いでいくということの価値」が見過ごされているのではないかという危惧もあります。

 

自然学校の特に我々ボランティアがやっていた日常業務はいたってシンプルで言ってしまえば地味なものです。

料理、掃除、薪割り、雪かき、道具の修繕、また宿泊客の準備、子どもの相手、その他雑務。

自然学校の経営のお手伝いもなかにはありますが、多くは自然学校での住み込み(以前は寮生もいたそうなのですが、僕がいた時にはいませんでした)の人の生活を作り上げていくというもの。

それは日常を淡々と続けていくということ。

これって、おそらく経済的には非合理的なことだと思うんですよね。

 

料理も外食や出来合いのものを買えば済むところを、自分たちの手で作る。

物が壊れても新しいのを買わずに直す。

野菜の皮などの食材の廃棄は鶏のエサとして再利用するし、紙ごみは薪ボイラーの焚き付けに使うし、古布はカレーとかついた皿を拭く用に切って再利用するし。

 

たぶん持続可能性というところにたどり着くんだろうけど、持続可能な生活をしていくってのはこういうことなんじゃないかなって、思うんです。

日本は近代化とともに新しいものに目がいき過ぎて、日本の気候風土に合った考え方や生き方を捨てすぎたように思っていいます。結局はそれは後世にツケとして回ってしまう。それが僕にはとても悲しい、というか罪深いことのように感じます。

技術とまではないかなくてもやり方を色々改善したり、その時代やそこにいる人に合うように改善していくっていうのは大事なことだろうけど、そればかりに気を取られずに、良いものは守り残していく、後世に引き継いでいく。

そういう視点も同時に大事なのではないかなぁと思った次第であります。

 

3.自分の論理の通じない人とのコミュニケーション

 

 

この期間中に一番予想外で大きな収穫となったこととして、小さい子と触れ合ったことから得た学びというものがあるように思います。

 

この自然学校には在中の夫婦のスタッフがいてその子ども(3歳と0歳)も一緒に住んでいます。そのスタッフが業務をしているときは、我々ボランティアがその子どもたちの面倒を見るという場面が多々ありました。

またその他、子育て中のお父さんお母さんが集まる交流会のイベントのお手伝いをしたり、自然学校で行われた小規模の「森のようちえん」のお手伝いをしたり、子連れの宿泊のお客さんのお子さんと遊んだりと、今までの学生生活ではあり得ないほど小さな子ども(それも小学校上がる前の)と触れ合う機会がとてもたくさんありました。

 

 

そんな中で、やはり小さい子らしい主張というか。僕らには理解できない言動を発するわけです。

イスをミニカーの道路に見立ててそこに座らないでと訴えたり、ワケのわからない遊びに夢中になったり、理由はわからないけど泣き叫んで甘えたり。

一見すると子どもはワケわからん生き物だなぁと思うわけですが、そこにグッと踏み込んで、こいつは何を考えてんだろうとよくよく観察してみると。そういった言動には彼らなりの合理性や意味みたいなのがあるんだというのが見えてきました。

 

社会にもまれた大人の論理を押し付けるのではなく、この子はどんな論理を持って行動しているんだろう、この子の発言にはどんな意図が含まれているんだろうってのを推測してみると子どもと関わるのがめちゃくちゃ面白く感じられました。

考えすぎてめっちゃ疲れましたがw

 

これって、考えを広げると子どもに限ったことではないと思うんですね。

例えば知的障害をもつ人とのコミュニケーション。例えば痴呆症の高齢者、文化が異なる外国人とのコミュニケーション。もっと言えば専門分野の異なる人、政治的思想の異なる人との議論などにおいて、自分とは異なる理論を持つ人の言動をどう理解するかっていう態度に繋がることのように思います。

そして相手と異なる論理をどう伝えるかっていう部分にも思いを巡らせるようになれると思います。

 

社会的弱者と言われる人の包摂が求められる現在、異文化交流が拡大したグローバル社会の現在、政治的対話の重要性がどんどん強まりつつある現在、複数分野の交流を必要とする学際的なトランス・サイエンスの発展が求められる現在、そして人々のコミュニケーション能力不足が叫ばれる現在において、こういう態度や体験はとても重要なように改めて感じられました。

 

 

以上大きく3点に分けてまとめてみました。

 

これ以外にも感じたこと、学んだことはたくさんあります。

なによりの財産はやはりここで出会った多くの人々です。

くりこま高原自然学校は、ボランティアや訪問として色んな人が出入りする場所でした。その時々でたくさんの人と交流し、色んな話をしました。

こうした繋がり、関係は自分の財産となるように感じています。

改めて、人に恵まれた人生送っているなと感じた次第であります。

 

約1か月の滞在。本当に充実した日々を過ごせたように思います。

優しく温かく迎えてくれたスタッフの皆様に心より感謝!

これからの日々も頑張って生きていきます!

 

 

おいしんご