おいしんごがそれっぽく語ってみた

四国の真ん中、高知県本山町の役場で林業担当をしています。森林のこと、環境のこと、社会のことなど、日々学んだことや考えたこと、感じたことをそれっぽく語っていきます。

ゴミを拾うこと―「おとな」になるー

こんにちは、おいしんごです。とってもお久しぶりです。

ブログを一新して再出発ということで、これからもどうぞよろしくお願いします。

 

さて今回は、ゴミ拾いの話をします。

突然ですが、私は小さいころから「ポイ捨て」というものがめちゃくちゃ嫌いでした。というか、ポイ捨てする人の気持ちが全然理解できませんでした。もちろん今でも。

 

道端にゴミをポイッとやって知らんぷり。どうかしてる…。

そんな人やポイ捨てされてあるゴミを見ると非常に腹立たしくなって、一番尖ってた時には「ポイ捨てするやつは死刑になればいいんだ!」とか思っていました。あの頃は若かった←

 

そんな私ですが、最近とても良い本に出合って、気持ちがふわっと軽くなりました。

 

それは内田樹さんの「街場の共同体論」(潮出版 2014年)という本です。

 

 

家族論から、消費社会、格差社会、教育問題、コミュニケーション問題など現代の日本社会を色んな側面から切り取って、広く共同体論ということで書かれています。

どの章も非常に興味深く、お先真っ暗なようで小さいところからやっていかなければいけないなぁと考えさせられました。

 

その中の一つに、「おとな」のいない国日本という話です。

第3章「消費社会と家族の解体」で述べられています。

 

この前段階の日本の経済システムと競争社会の話もけっこう複雑で重要なのですが、それは置いておいて。

日本の社会・経済システムは戦後の頑張りにより非常に優れたものになった。それはしかし、皮肉にも、お互いが足を引っ張り合いまわりの人々が未熟で無知で愚鈍であることを望む余裕ができるレベルまで豊かになったと述べられています。

それほど日本は豊かだし、あれこれ危機感をあおっても多くの人が大丈夫な気がするぐらい安心できるシステムが作られているのです。

 

しかし、未熟で無知で愚鈍な人々ばかりになったらさすがにどんなシステムも長くは持ちません。「どんなよくできた社会システムでも、それを永続的に機能させるためには、一定数の「おとな」が必要だからです」。

 

システムに欠陥が生まれた際にみんなが「おい!誰か直せよ!」と言っているだけでは必ずシステムは崩壊します。そんな時に誰かがそれを引き受けて直さなければならない。

つまり、「みんなの仕事」を「自分の仕事」だと引き受ける人がある一定数いないとシステムは持たないということです。この引き受ける人をここでは「おとな」と呼んでいるわけです。

 

そしてシステム保全仕事はボランティアだと、内田さんは言います。

なぜならそれは「みんなの仕事」だからです。そしてここでゴミ拾いの例が出てきます。長いですが、引用してみましょう。

 

「それこそ「道路に落ちている空き缶を拾う」ような気分で行う仕事です。「道路に落ちている空き缶」を拾うのは誰にとっても「自分の仕事」ではありません。自分が捨てたわけじゃないんですから。そんなものは捨てたやつが拾うべきであって、通りすがりの人間にそんな責任はない。それも理屈です。そういうのは「みんなの仕事」ではあっても、「自分の仕事」ではない。そう考えるのが「こども」です。「おとな」はそうではありません。

「おとな」というのは、そういうときにさくっと空き缶を拾って、ゴミ箱が手近になければ自分の家に持ち帰って「びん・かん・ペットボトル」のビニール袋に入れて、ゴミの日に出すような人のことです。それが「おとな」です。」(p104)

 

そしてシステムがうまく回るには、この「おとな」が全体の7%、15人に1人ぐらいいればいい。しかし、今は5%に近づき始めているんじゃないかと内田さんは言います。

日本は豊かだったがゆえに、そういう存在がいなくてもうまく回ってしまっていただゆえに、そういう人材を育てるのを怠ってしまいました。

そして少子化によってこれからどんどん人口が減る中、将来の社会の中核を担っていくのは「おとな」のなり方を教わっていない今の若者たち。このままでは日本が「おとな」のいない安全でも豊かでもない国になってしまう、と内田さんは憂慮します。

 

本の内容は以上なのですが、ここを読んで私の中には電撃が走ったわけです。

 

「そうか!ゴミは自分で拾えばいいのか!」

気付かなかった自分を愚かしく思います。

 

確かにみんながポイ捨てをやめるようになるのが理想的です。しかし、人を変えるよりは自分の行動を変える方がずっと楽です。

腹を立たせるんじゃなくて、自らゴミを拾う。それだけで本質的にではないですが、事態は解決するわけです。なんだか、気持ちがすっきりしました。なんとも単純です。

 

もちろんここで重要なのは、みんなゴミを拾いましょう!ではなくて、「みんなの仕事」を「自分の仕事」だと思って引き受ける人が必要だということです。

これは最近よく言われる、日本人の「無責任の体系」と近い話かもしれません。丸山真男が言っていたんでしたか。

 

ここでは実際に「おとな」になるにはどうしたらいいか、ということは書かれていません。システム保全の仕事は「みんなの仕事」でそれを「自分の仕事」と引き受ける「おとな」が必要、という抽象的なことしか書かれていません。というか説明するにはそうとしか言いようがないのかもしれません。

 

とにかくこれからは、道端に落ちてあるゴミはできるだけ(全部って言ったらできなかったとき罪悪感が出てくるのでできるだけで)拾うようにしたいなと思います。

それが「おとな」になる一歩なのかなと、思います。

 

今日はこの辺で!いやー、今日もそれっぽく語ったな~(笑)

読んでくださりありがとうございました!

 

 

おいしんご

内田樹「街場の共同体論」(潮出版 2014年)

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